突然抜擢されたと思っていた、竜の姫君の教育係。
その発端はもしかして。
「父様が主上に私を推薦したの?」
「そうだよ」
にこやかに頷く文仲は、まったくもって嬉しそう。
「最初はね、生き物に詳しい女性を聞かれてだね。ほら、生き物にも色々いるだろう? 鳥に魚に、虫から人まで。なんの専門が欲しいのかと聞かれたら竜だと言うものだから、それならうちの娘を、と推したんだ。慧芽なら分野の垣根を越えて、なんでも知っているだろうからとね!」
鼻高々に話す文仲に、慧芽は深々と息をついた。
釈然とはしないが、確かに父を経由したことを思えばさもありなんと納得はした。
文仲は一応、梔家学問のうち、動植物に精通する〝地〟の学問の一代前の師範だった。今は閑散としているこの邸も、慧芽が幼い頃は学生であふれていたほど。当然、生物に精通する文仲へ、まず初めに話が来てもなんらおかしくはない。
そして専門が竜、それも女性、と言われるのならば、地の学問を修めた七才媛である慧芽を推薦するのも必然だったかもしれない。
それならば、と。
慧芽は心置きなく離宮での出来事を話し出す。
それはもう、素っ裸だった竜の姫君と初めて対面した時のことから、思いだせる限りの日々の、あれこれ全部を。
文仲はにこにこと微笑みながら、膝の上に乗せたたぬきをなで、慧芽の話に耳を傾けてくれた。たぬきは途中で退屈になったのか、文仲の膝の上で丸くなってうとうとしている。
そして顛末をすっかり話して、ようやく自分が昏倒した原因にまでたどり着いた時、慧芽は悲鳴を上げた。
「なんてこと! 歴史的瞬間を完全に忘れていただなんて! 紙を! 父様、紙をください! 今度こそ忘れる前に紫雲竜のことを余すことなく書き綴らなきゃ!」
興奮しだした慧芽に、娘の挙動が予想外だったらしい文仲がのけぞった。
「け、慧芽……? 君、怖いとかは思わないのかい」
唖然とした様子の文仲に、慧芽はむしろ目を輝かせる。これまで被っていた猫の皮が、ぼろぼろとはがれ落ちていく。
「まさか! 天候をも操るのが竜なのよ! すごいわ! どうしたら雷を飛ばせるのかしら。人間には無理でしょう? ああ、竜にしかない何かがあるに違いないわ!」
「慧芽、やっぱり落ちつこうか」
やんわりと文仲にたしなめられるけど、慧芽の知的探求心は止まらない。頭の中でぐるぐると竜の胎内構造の仮説が駆け巡っている。
うっとりとした表情の慧芽は、ほぅと息をつくと、ぽつりと胸中の願望をこぼした。
「はぁ、鼠みたいにちょっとお腹を切っても許されるかしら」
「そんな物騒なことは言うものじゃないよ。あぁ、竜の雷でちょっとばかし頭に影響が出ているのかもしれないね。お医者を呼ぶまで寝台を出てはいけないよ」
はい、と掛布をかけられ、慧芽は強制的に寝台へと寝かしつけられる。話をしながら口に運んでいた葡萄も取り上げられて、お腹の上には小さな見た目に似つかわしくない体重のたぬきが、ずっしりと乗せられた。
「……父様、重いのだけれど」
「勝手に抜け出さないように重石をだね。さぁ君、私が戻ってくるまで、娘を頼んだよ」
ちょいちょいとたぬきのおでこを文仲がつつくと、たぬきが「がってんしょうち」と言わんばかりに前足を上げて応じた。
慧芽はそれに少々不満げな面持ちで、恨みがましく文仲を見上げたけれど、文仲は慧芽が食い下がる前にささっと部屋を退出していった。
納得がいかない。
これほどの大発見を前に興奮してしまうのは致し方のないことだと思うのに。文仲は心配性が過ぎる。
お腹の上でころころと寝返りを打つたぬきを抱き込んだ慧芽は、ふてくされた赤子のように寝台でまるまった。
経過観察ということで、医師に三日は安静にと念を押された慧芽は、離宮の様子を気にしつつも休養することとなった。
もちろん皇帝陛下からのお達しがあっての正式な休養だ。自分のいない間の姫君のことが気にかかったけれど、遊々にすら寝台にくくりつけられそうな勢いで休むように言われてしまったので、無理もできない。しかたなく、慧芽は自室で大人しく過ごすことにした。
目覚めてすぐは思っていたよりも体力がなくて、長時間身体を起こしているのも難しかった。だがそれも一日目だけのことで、二日目の午後にはすっかり起き上がって書物に没頭しはじめた。
というのも、この休養の期間をまったく無駄にする気など慧芽にはなく。
世話をしてくれる遊々にお願いして、書庫からいくつもの書や文献を持ち出してもらっては、竜のことを学び直していた。
慧芽は古今東西の動植物についての知識を蓄えてはいるものの、竜の専門とまで言えるほどの深みのある知識はさほど持っていない。ひととおりの書を読めば分かることくらいしか知識として持っておらず、詳細に調べようとしたこともなかった。
とはいえ、そこは梔家七才媛に数えられる才女。間違いなく、普通よりは深みのある知識を蓄えてはいるのだが、そんな彼女が改めて竜の生体について総ざらいするのだから、開く書物は膨大だ。
それこそ、それまで教養程度でしか竜を知らなかった慧芽が、百科目録や字引を筆頭に、歴史、考古、美術、それどころか国交や政治資料にまで手を出して調べ始めたのだから。
竜の生体はもちろん、歴史で確認された竜の回数、特徴。考古学により分類されている竜と思しき痕跡、美術品に挙げられる竜の素材、天峯国以外に伝わる竜の話、過去に見える竜と政治的な意図。
慧芽はありとあらゆる方面から、竜についての分析を始めた。
そんなことをすれば、一日はあっという間にすぎてしまう。夜もふけるまで調べ物に没頭すれば、さしもの慧芽も子供の時分の頃のように遊々に怒られた。
それでも慧芽は、竜のことを調べずにはいられなかった。
竜と人との共存は前代未聞で、調べれば調べるほど、竜と人は共存が難しい存在同士であることしか分からない。
圧倒的膂力。
圧倒的生命力。
森羅万象の中心にいるべき存在。
それが竜であると認めざるを得なくて。
けれど、人に歩み寄ろうとする竜の姫君がいる。ならば恐れることなく、共存する道を見つけ出してやりたいと、そう思ってしまったから。
竜の姫君は悪い竜ではないことを、慧芽は知っている。ちょっとばかし乱暴で、我儘で、言うことを聞かない時もあるけれど、素直で可愛い、幼子のような少女と変わりない。
だからこそ、今回の件で望まぬ方向へ事態が進むようであれば、当事者の慧芽こそが擁護してやらねばと考えていた。