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第20話 良心の呵責

 療養三日目。

 寝不足の慧芽は目をしぱしぱさせながら、邸の廊を歩いていた。眠たいのは、夜遅くまで自室に持ち込んで、書や絵図、資料を読みふけっていたからだ。


 遊々が来るにはまだ早い時間。

 慧芽は眠気を覚ますために熱いお茶が飲みたくなって寝台を抜け出すと、厨へと向かう。


 遊々がいてくれれば彼女があれこれ家のことをしてくれるけれど、遊々がいない時は自分で自分の世話をしなければならない。


 この邸の広さや家格のことを思えば、本来なら家人がもう何人かいても良いけれど、家長の文仲がそういったことに頓着しない。名門の分家ではあるが、そういった慎ましい生活に慧芽もすっかり慣れてしまった。


 そんな慧芽が、遊々が来る前にするりと寝台を抜け出してしまったのも致し方のないこと。何も深く考えず、着の身着のままで厨へと向かっていたところ。


 既視感。

 邸の曲がり角に人の影を見つける。


 父だろうと根拠もなく思った慧芽は、何も気にせず声をかけた。


「父様、おはようございま……、…………す?」

「おはよう、慧芽〜。君にお客人が来てるよ〜」


 文仲ののんびりと間延びした声を聞きながらも、慧芽の視線は文仲の背後に釘づけだ。


 ひょっこりと背丈の低い文仲の頭の上にある、見慣れた顔。


 本当ならここにいるはずのない人がここいる。

 離宮にいるはずの人が。


「……克宇様?」

「おはようございます、慧芽殿。その……間が悪かった感じですかね?」


 離宮にいる時のような武官姿ではなく、普通の青年といった出で立ちで、関克宇が梔家の邸の中にいる。


 慧芽はぽかんとした。

 それから、自分が今、どのような姿かを思いだす。

 素っぴんどころか、下着も同然なだらしない姿で。


「〜〜〜っ、きゃあああ!」


 羞恥が理性を上回り、慧芽は絶叫した。






「先ほどはお見苦しいところを、失礼しました」

「いえ、自分こそ先触れもなしに、すみません」


 身なりを整え、改めて客間にうかがった慧芽に、克宇が心底申し訳なさそうに眉を下げる。むしろ慧芽のほうが申し訳ないくらいで、お互いに深々と頭を下げた。


 廊でばったりと克宇と出くわしてしまった慧芽は、絶叫直後には踵を返して自室へと駆け込むと、大急ぎで身支度をした。


 どうせ文仲だけだろうと高をくくっていた慧芽は着の身着のまま夜着のまま。髪も寝癖でぼさぼさで、その上、朝の明るい日差しのもとにさらされる素っぴん。女性として、これ以上ないほどの醜態を演じてしまった己に打ちのめされてしまった。


 本当は寝台に丸くなって掛布の中にもぐり込みたいほどだったけれど、文仲が「慧芽の見舞客」として克宇を連れてきていたので、それもできず。


 それでも娘の慌てぶりを見た文仲が気を利かせてくれたのか、自室ではなく客間のほうへと通してくれたおかげで、慧芽はなんとか身繕いする時間を確保することができた。


 そうして顔を洗い、髪を結い、化粧を施し、衣に袖を通した慧芽は、四半刻もしない内に身支度を整えると、姿勢をしゃんと伸ばして客間へ入り、克宇に毅然とした挨拶を交わしたのだった。


 けれど、いざ克宇と対面した慧芽は、自邸だからと招いてしまった自らの失態に顔から火が出そうだった。こんな自分が竜の姫君の世話役であり教育係など、克宇に幻滅されたに違いない。そんな思いもあって、慧芽はうなだれたまま克宇と視線を合わせることができない。


 文仲が若いもの同士だからと気を利かせて席をはずしてしまったけれど、慧芽としてはこの場に残ってくれたほうがどれほど心強かったことか。


 慧芽がにっちもさっちもいかずに、内心大荒れでこの状況をどう切り抜けるかを考えていれば、卓を挟んだ向こう側で先に言葉をかけてくれたのは、克宇のほうだった。


「それにしても安心しました。どうやらお身体のほうは大事がなかったようで」


 慧芽を気遣ってくれる優しい言葉。

 はっとした慧芽は顔を上げる。


「そうでした、お礼がまだでございました。克宇様が倒れた私を迅速に医師のもとへと送り届けてくれたと聞きました。ありがとうございました」


 先ほどとは違う意味で慧芽が深々と頭を下げれば、克宇は「おやめください」と硬い声で慧芽をたしなめた。


「ああいった事態を予測されて配置されていたはずなのに、俺は慧芽殿を守れませんでした。こちらが謝罪こそすれ、感謝される筋合いはないんです」

「いえ、あれはそもそも、私が招いてしまったようなものですから。もう少し姫様に歩み寄っていれば、起こらなかったことでもありましょう」

「それでも俺が」

「いいえ、私にも責任はあるのです」


 お互いに責任は自分にあるのだと主張するけれど、どちらも決して譲ることはない。

 だから慧芽は、克宇が重ねようとした言葉を遮って、包み隠さず己の本心を告げた。


「確かに克宇様の失態は武官としてはありえぬことでしょう。それと同時に、私は女官としてあるまじきことをいたしました。姫君を人間らしい女性にするのであれば、護衛武官である克宇様に、姫様へと剣を向けさせてはならなかったのです。私はそのために勅命を受けていたはずなのですから」


 ゆえに、慧芽は自身にも責任があると考えていた。

 まっすぐ真摯に訴える慧芽に、克宇の表情がゆらぐ。


「……そこまで考えていただいていると知って、どうして食い下がれましょう」


 たちまち降参したかのように、克宇の表情がへにゃりと崩れた。それでも克宇は慧芽に念を押す。


「ですが、今回の悲劇は俺の慢心と実力不足もあったこと、これだけは忘れないでください」

「いいえ、それも致し方のないことです。何しろ相手は、雷すら操る竜ですもの。どうして人が雷に勝てる道理があります?」

「それでも武官であり、護衛である俺にはそれを成す義務があったんです」


 慧芽のは自然の摂理を知るからこその言葉をかけるけれど、克宇はそれにも首を振った。普段からは想像もしなかった克宇の剛情な態度に、つい慧芽も剛情になってしまう。


「では、克宇様は雷より早く駆けて打ち落とすことができると? それこそ慢心です。人が雷に勝つには、そのような方法ではどうあがいても勝てませんから」


 すっぱりと慧芽に言葉でねじ伏せられて、克宇の肩がしゅんと落ちた。

 離宮にいたときもたびたび情けないと思う姿は少々あったけれど、武具を脱いだだけでより一層頼りなさを感じさせる青年に見えてしまう。慧芽はなんだか罪悪感を覚えてしまい、克宇に対して厳しくなりがちな言葉を抑えた。


「えぇと……、つまりですね。私が言いたいことは、雷を防ぐ術はなかったのです。防ぐとしたら、私の言葉であるべきだったと。……お互いまだ未熟ということで、この不毛な言い争いは、やめませんか?」


 結局は慧芽も自分の責任を主張するだけになってしまって、この話から離れることを提案する。


 克宇は納得がいかないような微妙な顔をしていたけれど、慧芽の提案に否は言わなかった。


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