しばらくの沈黙。
克宇からの話はそれだけだろうかと、今度は慧芽から話題をかけようとする。
「あの」
異口同音で発された言葉。
慧芽も克宇もお互い口を閉じてしまう。
「慧芽殿、お話があれば先に」
「いえ、御用があっていらしてるのですから、ここは克宇様から」
お互いに譲り合う。克宇がなかなか折れそうにないので、結局、慧芽のほうから話を切り出すことにした。
「私が倒れたあと、姫様はどのような様子ですか。克宇様がこちらにいらっしゃるということは、どなたか代わりの方が離宮に?」
そうあればいいと願いながらの慧芽の問いかけ。克宇の表情がみるみるうちに暗くなっていく。その態度から、竜の姫君の現状がよくないものだと分かってしまう。
「俺も、そのことを慧芽殿に伝えなければと思って来たんです」
深くため息をついた克宇は、顔をあげると慧芽をひたと見据えた。
きりりとした眉と意志の強い瞳は、たとえ常服であっても、武官としての役にふさわしい人間のものだ。そんな克宇が、改まったように姿勢を正すと、衝撃のひと言を慧芽に告げる。
「竜の姫君は離宮の地下牢に。人の姿のまま、鎖に繋がれております」
克宇の生真面目で武官らしい無骨な言葉。
可能性の一つとして予想してはいたことだった。
竜の姫君の現状を、慧芽は重く受け止めた。竜の姫君は今、最悪ではないけれど、最悪の一歩手前にある立ち位置にいる。
「地下牢、ですか」
「はい。仕置きと見張りを兼ねてのことだそうです。地下牢で竜になれば、さすがの姫君もその上にある離宮一つ分の重みに堪えるでしょうから」
あの明朗快活な竜の姫君が地下牢に繋がれているのを思い浮かべて、慧芽は瞼を臥せた。「ダンナサマに会いたいよう」と泣きじゃくる竜の姫君の姿が容易に想像できて、胸が苦しくなる。
「期限はいつまででしょうか」
「あー……その、あまり気持ちのいいお話ではないというか……」
「じらさないでくださいませ。はっきりしっかり仰ってください」
途切れ悪く言葉端を濁した克宇に、慧芽はぴしゃりと言い放つ。言葉を選ぶのは悪いことではないけれど、必要な言葉まで制限してしまおうとするのは、克宇の悪い癖だ。
せかされた克宇は、おずおずと気のりしない様子で、慧芽の問いに対する答えを口にした。
「主上が仰るには、慧芽殿次第、と」
「私次第、ですか?」
あんまりにも曖昧な言い方。
慧芽は訝しげに眉をしかめた。
「それはどういう意味でしょう?」
「慧芽殿が亡くなってしまえばその瞬間まで。生きていれば、判断は慧芽殿に任せるものとすると」
「……後半は裁量を私に任せていただけるという意でよろしいとは思うのですが。ですが前半の、私が万が一死んだ場合の、その意は」
その瞬間まで、という言いまわしがなんともいやらしい。慧芽は胸の奥にもやもやとしたものを抱えて、克宇に皇帝陛下の意向をうかがう。
克宇自身も伝えるのをはばかれると思っているのか、躊躇うような素振りを見せる。それでも口を開いた克宇の言葉は案の定、気持ちのいいものではなかった。
「慧芽殿が亡くなるようなことがあれば、人の敵となった紫雲竜を主上自ら討って出ると仰ったそうです。それが自分を番いと呼ぶ竜への餞であると」
あぁ、と。
慧芽は改めて生きていてよかったと思う。
生きていたからこそ、最悪の選択肢が選ばれることがないという安堵を実感できたのだから。
「姫様はそのお話を」
「ご本人ですから。もちろん聞かされています。ただ主上自らではなく、見張りの牢番づてではありますが」
「さすが主上、と言わざるを得ませんね……」
本当に嫌な手を打つものだと、いっそのこと慧芽は感心すらしてしまう。
皇帝陛下は人伝てに竜の姫君を討伐するという話を伝えることで、竜の姫君の本性を図るつもりなのだろう。その上で慧芽が生きていた時にしこりを残さないように、己の表情を隠した。
もし慧芽が生きていた場合、竜の姫君にひと言「本意ではなかった」と哀しげな表情と共に訴えれば、きっと単純な姫君のことだからころりと信じてしまうに違いない。たとえその表情の下に冷酷な為政者としての顔を持っていようと、竜の姫君には分かりっこないのだから。
そんな皇帝の意図に舌を巻きながらも、慧芽は「なればこそ」と言葉を繋ぐ。
「ますます私自らが離宮に赴き、この目で姫君を見定めねばならないということですね」
「そうなんですが……大丈夫です? 慧芽殿はその、姫君にお会いできますか?」
いまいち要領の得ない問いかけをする克宇。
慧芽はわずかに首をかしげた。
「できるもできないも、姫君にお会いしなければならないのでしょう? ならば会うまでです」
「いや、そうなんですけど……怖くはありませんか? 相手は雷を操る竜です。またいつ雷を自分に向けて放つかも分かりません。恐ろしくは、ありませんか?」
克宇はぽつぽつと言葉を重ねる。
重ねられた言葉はとどのつまり、克宇が見てきた光景なのだろう。
竜の姫君は初めのうちは後宮にいたとは聞いている。けれどきっと、その奔放ぶりやこぼれでる雷、本来の姿がからまって、克宇の言うとおり、後宮の女官の中には竜の姫君を恐れる者が出たのだろう。
だが、それはそれ。
慧芽は真紅に染められた唇を弓形にすると、不敵に笑う。
自分にとってはこの程度。
「犬に噛まれたのと同義です。狂犬病を知っていますか? あるいは鳥の流感を」
どちらも人がかかれば死に至る病だ。けれど人はその脅威の横で、今日も犬を抱き、鳥から卵を取る。
だから。
「竜の雷も同じものですよ」
毅然とした言葉で言い切った慧芽。これ以上ない根拠を挙げたのに、克宇は珍妙なものを見つけたかのような微妙な顔になって。
「相変わらず慧芽殿は、独特な感性をしていますね」
「失敬な。真実と道理を述べただけですのに」
慧芽は釈然としない気持ちになった。