克宇の用意周到さに慧芽はあきれた。
梔家の門前には馬車が停まっており、慧芽が離宮に行くと答えるのが最初から分かっていたかのようで、少々物申したくなる。
けれども、慧芽はその言葉をすべて飲み込んだ。克宇のこの手際の良さのおかげで、すぐにでもあの手間のかかる竜の姫君のもとへ馳せ参じることができるのだからと。
条坊で区画された都のうち、そのはずれにある梔家は、幸いなことに離宮からさほど離れていない。都を南から北まで横断するようなことはないけれども、
がらがらと馬車が轍を残しながら進み、離宮へ向かう。都のはずれ、夏の簡易的な避暑地として使われるという離宮は、小さな山に隠されるようにして構えられている。
山を切り開いて塀で囲み、湧き出る池から水を引き、山道ですら手入れが行き届いており、まるで山一つがまるごと離宮の園林のようなもの。造園家の見事な手入れに、いつ見ても感心してしまいながら、慧芽と克宇を乗せた馬車は離宮の門をくぐった。
数日前までは離宮の門には門衛など誰もいなかったのに、今は二人、外側に立っている。その物々しさに、慧芽はそっと背筋を伸ばした。
馬車を降りるの、克宇の案内で、離宮の地下牢へと向かう。
離宮に地下牢があることを知らなかった慧芽は、ずっと庭師用の物置かと思っていた小屋が地下牢への入り口だと知って驚いた。だが、驚いたところでそれ以上でもそれ以下でもないので、何も言わずに克宇のあとを追っていく。
克宇が手燭に明かりをつけてくれた。これで薄暗い視界でも地下へと続く階段を降りることができる。
陽の光の届かない地下は地上の空気と違って埃っぽく、ひんやりとしている。慧芽は急激な温度の差に、衣の上からそっと腕をさすった。
こつこつと天地が石畳に覆われた通路を沓を鳴らして歩く。途中、いくつもの別れ道や牢があったけれど、克宇は迷うことなく、つま先を進むべきほうへと向けた。
そうして行く先に、もう一つの手燭の明かりが見えて。
牢番らしい男が一人立ち、こちらの手燭に気がついて声をかけてくる。
「関克宇様と、そちらは梔慧芽様でしょうか。お話はうかがっております」
「ご苦労さまです。中に入っても?」
慧芽が一礼して問いかけると、牢番がとんでもないというように首を振る。
「それはいけません。今は大人しいですが、いつ暴れるのか分かりませんので」
「お気遣い感謝します。ですが、姫様にとってここから出ることは、たやすいことでしょう。それをしない姫様のお心をくみ、ここはどうか」
牢番は牢の中へ入ることを渋った。それでも慧芽が食い下がれば、渋々ながら懐の鍵で錠をあけて、鉄の格子の戸を開けてくれる。
明かりのない暗闇が、牢の中に広がっている。
克宇から手燭を受け取った慧芽は、背を伸ばしながらゆっくりと牢の中に踏み込んだ。
そろそろと歩を進め、手燭の明かりを掲げる。
奥のほうに足枷で繋がれた少女を見つけた。
ふわふわとした紫の髪が体を覆っている。まるで毛玉のように丸くなって眠っている少女のすぐそばに、慧芽は裳が汚れるのも構わず膝をついた。
「姫様」
「……う?」
慧芽が声をかけると、うすらと金色の瞳が開かれる。頼りない手燭の明かりが、ヴェラの瞳に揺れて美しい。
その美しい瞳が手燭の明かりを越えて、慧芽を見た。三日月のように細かった瞳が、満月のように大きく見開かれる。
「けーめー?」
「はい、慧芽でございます。姫様をお迎えに上がりましたよ」
慧芽が優しく声をかければ、ヴェラの瞳が揺れた。
きゅっと唇が真一文字に結ばれて、顔を地に伏せるようにますます丸くなってしまう。
「どうなされたんです。地上へ戻りますよ」
「い、行かない! ヴェラ、悪いことしちゃったんでしょ! だから、ここにいるの!」
「まぁ、それでは姫様のお世話をする私も、今日からここで過ごさねばなりませんね」
「えっ、なんで!?」
丸くなっていたヴェラが、がばりと顔をあげた。
ヴェラの埃で汚れた顔を袖でぬぐってやりながら、慧芽はこともなげに告げる。
「それが私のお仕事だからです。私は姫様を、皇帝陛下のお妃様にふさわしい淑女にするように命じられているのですから」
「でも、ヴェラ、お嫁さんになれないよ……だって、ヴェラ、やっちゃいけないって言われたこと、やっちゃったもん……」
べそをかくヴェラは十二分に自分が悪いことをしたという自覚があるようだ。
慧芽は頬をゆるめて、ヴェラに微笑みかける。
「誰にだって過ちはあるのです。悪いと思うのなら、次はやらなければよろしいのです」
「けーめーはかんたんそうに言うけどさぁ。分かんないもん。ヴェラ、またやっちゃうかもしれないもん……」
「ならば自分をよく知ることです」
また丸くなって紫の毛にくるまろうとするヴェラの肩に触れ、無理矢理ではあるが慧芽は視線を合わせた。
「私は姫様の十分の一も生きておりませんが、たくさんのことを知っています。姫様のことも、姫様以上に知っていますよ」
「うそだぁ」
「本当ですよ。たとえば姫様は蛇の尻尾よりも頭が好きだとか、蜥蜴も天日干しされているものよりは、ふっくらまるまるしているのが好きだとか。そういえば蛙は大きいものよりは小ぶりで、けばけばしい色のがお好きですよね」
「すごい、あたってる。どうして?」
ヴェラは目を丸くするけれど、実際に慧芽が挙げたのは、ヴェラが好みそうな「人間には毒であるような」食べ物だ。
何度も注意してやめさせてきた中でも、慧芽はヴェラがその手に掴んだもの一つ一つを逃さずに、あの『日誌』に細かく記載していた。だから言えたことで、珍しいことでも何でもない。
「私は姫様をよく見ているだけです。姫様も自分のことをよく見てあげてくださいませ。きっと分かることもありますから」
「むずかしいよ……自分を見るってどうするの」
再びうつむこうとするヴェラ。
慧芽は手燭をそっと地面に置いて、懐の巾着から、手のひらに収まるほどの可愛らしい手鏡を取り出した。