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第24話 才媛の手鏡

 慧芽が差し出したのは、彼女が肌身離さず持ち歩いている手鏡。池の水面のようにすっきりと慧芽の姿を映せるほど、丁寧に鏡面が磨き上げられている逸品だ。


 慧芽はその手鏡に、ヴェラの顔を映してやる。

 ヴェラの満月の瞳がまん丸になった。


「こうやって鏡を見て、自分へと問いかけるのです。そうすれば自ずと、鏡の自分が教えてくださいますよ」

「……ほんとう?」

「きっと」


 慧芽は微笑むと、ヴェラの手をすくい、その手に手鏡を握らせて。


「これは私の母の形見です。私は何度もこの手鏡を見つめ、自分というものを見つめ直してきました。こちらを姫様に差しあげましょう。これでどうか、自分のことをもっとよくお知りになってください」


 ヴェラは両手ですくうように手鏡を受け取った。そっと視線を上げ、不安そうに金色の瞳を揺らす。


「こわいよ……壊しちゃいそう。これ、けーめーのだいじなやつなんでしょ?」

「ええそうです。壊しそうになるなら、鏡を見てください。鏡の自分に『鏡を壊さずに持つにはどうすればいいのですか?』と聞くのですよ」

「けーめー、それがむずかしいんだよぅ」


 とうとう音を上げてごね始めたヴェラ。

 だけど手の中の手鏡が慧芽にとっての大切なものであることを理解しているようで、手のひらに力を込める素振りはまったくない。


 だから慧芽はますます微笑んだ。

 ヴェラは、ちゃんと気のつかえる、優しい竜であると分かるから。


「大丈夫ですよ。分からなければ私が教えてさしあげます。だから姫様、どうか私にもう一度、そのおそばに侍る許可をいただけませんか。あなたを怒らせてしまった私ですが、どうか挽回のご慈悲を与えてください」


 そう言って膝をついたまま、背筋を伸ばし、頭は垂れ、拱手した。


 慧芽はヴェラに対する礼を尽くす。

 ヴェラはそれにおろおろとしていたけれど、いつまで経っても何も言わない、動かない慧芽に、とうとう根負けしてしまう。


「ん、分かった。ヴェラ、またがんばる。がんばるから、けーめー、ヴェラのこともたくさん教えてね。ヴェラの知らないヴェラをちゃんと知って、ニンゲンのこともたくさん知れたら……ダンナサマはまた会ってくれるかなぁ」

「もちろんでございます。だから姫様、ここから出ましょう。ここから出て、主上が心ときめくような、すばらしい淑女になりましょう」

「うん!」


 ヴェラが元気よく返事をする。

 そしてようやく、立ち上がる。


 一糸も身にまとわないヴェラは、慧芽が最後に見た時のまま。薄汚れているものの、このまま地上に挙げられないと思った慧芽は、自分が羽織っていた外套をヴェラに羽織らせた。ヴェラはその愛らしい顔に眉を寄せたけれど、甘んじてそれを受け入れる。


「上に戻ったら先に湯浴みをいたしましょう。牢番に足枷の鍵をいただいてきますので――」

「これくらい千切れるよ?」


 慧芽が改めて牢番から足枷の鍵を借りようとする前に、ヴェラが軽々と鉄でできていたはずの足枷の鎖を腕力のみで引きちぎった。ジャリンッという聞き慣れない音に、慧芽は顔を引きつらせる。


「…………姫様、物事には何ごとも順序があるんです。枷は一応……鍵ではずしたことにしてください」


 パキンッとくるみを割るかのように軽快な音を立てて、ヴェラの足首にはめられていた足枷が真っ二つに割れた。


 見間違いなどではないその光景に、少しだけ頬を引きつらせながらも、後半のひと言は牢の外でこちらの様子を見ていた牢番と克宇に向けて送る。


 克宇は苦笑していたけれど、牢番は引き攣った表情で、何度もヴェラと足枷を見比べていた。






 地下牢から地上へと上がった慧芽は、まず第一に埃まみれだったヴェラに湯浴みをさせた。克宇と牢番の馬典ばてんに頼み、火を焚き、湯をわかせ、ヴェラの頭の天辺からつま先まで丁寧に清める。


 さっぱりと身繕いすれば、時刻はもう夕刻で、慧芽は慌ただしく夕餉の支度もこなした。そうしてすっかり夜の帳が下りる頃には、いつものような三人での食卓が実現していた。


「克宇様、馬典様はどちらに?」

「城へと戻られましたよ」


 慧芽や克宇が落ちつくまであれこれと手伝ってくれたけれど、馬典は城から一時的に派遣されてきた牢番。ヴェラが牢から出されたので、元の仕事へ戻っていっただけだ。


 慧芽は何気なく馬典の分の食事も作っていた。余ってしまうだろうかと一瞬懸念したけれど、今日のヴェラは食欲が旺盛だ。すごくお腹が空いていたのか、あればある分だけ食べてしまう勢い。食事が余ることはなさそう、と考えながら慧芽は自分も箸を取った。


 今日は刀削麺だ。野菜やひき肉とともに、塩のさっぱりとした風味の汁でいただく。ヴェラはおいしそうにもちもちとした麺を頬張って、すぐに椀を空にし、お代わりを所望した。


 慧芽がいつものようにかいがいしくヴェラの食事の世話をするのを見て、克宇がゆるりと口もとをほころばせる。微笑を浮かべながら食事をする克宇を見て、慧芽はここ数日で日常となりかけていた光景に戻ってきたことを実感した。


 ただ、色々と問題が山積みではあるけれど。

 その問題を解決するためにも。


「克宇様。一つお願いがあるのですけれど」

「はい。なんでしょうか?」


 克宇が口に運ぼうとしていた箸を下ろす。

 慧芽はヴェラが三杯目の刀削麺を食べるのを見守りつつ、克宇に一つの願いを申しでた。


「難しいとは思うのですが、外出許可をいただきたいのです」

「外出許可ですか? ご実家に戻られるのでしょうか」

「実家にも立ち寄るつもりですが、姫様に一度、城下を見せようと思いまして」

「それは」


 克宇は少しだけ渋い顔をした。

 慧芽は克宇のその表情から、やはり難しいのだろうかと思考する。


「どうして急に?」

「今の姫様に一番必要なことと思うのです」


 ヴェラはあまりにも人を知らなさすぎる。慧芽や克宇、主上と、限られた人々の営みしか知らない。人間にとっての普通を教えるには、人のいないこの離宮では限界がある。


 ゆえに。


「もっと人との交流を持てる場がほしいと考えたのですが、いかがでしょう?」


 慧芽の問いかけに、克宇は少しだけ逡巡するような表情を作る。三拍きっちり数えると、箸をそっと置いて視線を上げた。


「分かりました。今夜中に手配をしましょう」


 頼もしい克宇の返答に、慧芽は喜んだ。


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