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第25話 はじめての城下

 実のところ慧芽は進言すらも難しいと予想していた。人に圧倒的暴力をふるったヴェラを、そう簡単に人前に出すわけにはいかないという判断が下されるのが当然だからだ。


 けれども克宇は一度逡巡したのみで、あっさりと手配をしてくれるという。意外な返答に、慧芽は素直に喜んだ。


「ありがとうございます。無理のない範囲でかまいませんので」

「いえ、問題ないです。むしろ姫君には必要なことだろうと、時期を見て、連れ出すように主上からはお達しが来ていたので……今までなかなか機会に恵まれなかったんですが、いい機会ですから」


 克宇はそう言うと大きな口をあけてぱくぱくと食事を進めるヴェラを見る。


 衣をまとい、箸を持ち、人間らしく食事をするヴェラ。この離宮に来たばかりの頃では考えられないくらいに、人間らしく振る舞えている。


「慧芽殿が必要であると判断されたのであれば、大丈夫ですよ。一応報告義務もありますので、早くとも明日の昼からになると思いますが」

「十分です。ありがとうございます」


 慧芽がほっと息をついていると、ふとヴェラが慧芽のほうを見ていることに気がついた。


「姫様、いかがいたしましたか?」

「けーめー、どっか行っちゃうの?」


 不安そうなヴェラの表情に、慧芽は一瞬何が言いたいのか分からなくて口をつぐんだ。けれどすぐに口もとをゆるめ、ヴェラの不安を払拭させるべく微笑みかける。


「お出かけをしようと思います。姫様も一緒ですよ」

「ヴェラも?」

「そうです。姫様は城下を見たことはございますか? たくさんの人が集まる場所です。そこで人々が、どういう営みを繰り返して生活するのかを、実際に見ていただこうと思います」


 ヴェラの表情が、まるで朝顔が花開くかのようにみるみるうちにほころんでいく。満面の笑顔を浮かべたヴェラは大きな声をあげた。


「行く! 行ってみたい!」

「城下へ行く時は、きちんとお衣装を着てくださいね。それができないと、連れてはいけません」

「わかった! がんばるっ!」


 ふんすっと鼻を大きく膨らませたヴェラは力強くうなずいてみせた。その様子に、慧芽と克宇は視線を交わし合う。二人して、小さな子の成長を目の当たりにしたかのように柔らかい表情になっている。


 慧芽は一連の騒動の中で、ヴェラが人間に対する苦手意識というものを持ってしまった可能性も考慮していたけれど、余計な心配だったようだ。本人も行きたがっているし、自分から「がんばる」と宣言した以上、大暴れするようなことはないだろう。


 ほっとひと息ついた慧芽は、いざ城下へ行くにあたっての段取りを脳裏に描きながら、ようやく食事へと箸をのばした。



   ◇   ◇   ◇



 翌日、克宇は昨夜伝えたとおりに、昼頃には皇帝陛下直々のお許しを得たと勅命書をたずさえてきた。


 昨日の今日でどうやってと驚いた慧芽だけれど、話に聞く「夜だけの護衛」とやらが皇帝まで直通の報告をあげてくれたと聞いた。そのおかげで街歩きに適した衣服や多少の小遣い、それから城下に行くまでの馬車まで完璧に手配してもらえたので、大変ありがたい。


 さっそくヴェラに話をすれば、満月のような金色の瞳をきらきらと輝かせて喜んだ。離宮で着衣の訓練をしている宮妃衣装より簡素な衣服を、今日は嫌がらずに自ら袖を通したくらいだ。


 慧芽も女官服ではなく、実家で着ていたものを身に着けた。さすがのヴェラも化粧はまだ嫌がるので、慧芽は自分のほうがヴェラと並んでもおかしくはないように、手早く化粧をし直す。髪も本来ならヴェラの珍しい紫髪を隠すべきだが、ヴェラが嫌がるので慧芽は色粉を使って自身の髪を、ヴェラより少し暗めの紫に染めあげてみせた。


 そうして支度を整えた二人は、髪色の珍しい良家の姉妹のように見える。ヴェラはふわふわと髪が風に遊ぶのをまかせ、慧芽はそのさらさらとした髪をゆるく束ねて胸もとにたらす。本当の姉妹のような装いになった二人に、克宇は感嘆の声をあげた。


「これはお見事です。女性は化粧で化けると聞きますが、慧芽殿もなかなかですね」

「それで褒めているつもりですか?」

「これ以上ない褒め言葉ですよ」


 にっこり笑う克宇に、慧芽はあきれて物も言えなかった。本気でそれを褒め言葉と思っているなら、間違いなく克宇は、今後女性関係でかなり苦労することになるだろう。


 そういう克宇もいつもの武官服ではなく、つい昨日、慧芽のもとへ来たときのような、ごくごく普通の若者らしい姿をしていた。帯剣しているものの、この格好だけ見れば武官とはすぐに思えない、ただの人好きのする好青年だ。


「それではお嬢様方、こちらへどうぞ」


 にこやかに笑って馬車の戸を開く克宇。

 慧芽はそれを一瞥すると、ヴェラの手を引き、馬車へと乗り込んだ。


 城下へ出る間、ヴェラは本来の身分と姿を決して明かしてはならない。故に慧芽とヴェラは良家の姉妹、克宇はその従者として城下におりるので、慧芽はヴェラにそのことをよくよく言い含めた。


 ガタゴトと砂利道を行く馬車に揺られる。慧芽がヴェラに今日一日注意することを聞かせたあとは、ヴェラは物珍しそうに馬車の外を見ていた。初めて乗る馬車に、ヴェラはすでに興奮して目を輝かせている。


 ヴェラが初めて馬車に乗ると聞いた時は驚いた。一時でも宮城にいたと聞いていたので、離宮への移動の際には馬車が使われていたと思っていたからだ。


 けれども真相はなんとも言い難いもので、克宇からこっそり聞いたところによると、宮城から離宮へ移動させる時は、格子付きの罪人用の荷馬車が使われたらしい。しかも中に入るヴェラへ、直前に竜すら酔わせる強い酒を飲ませて寝かしつけての所業だとか。


 どれもすべて皇帝の指示だというから、あの優しそうな顔の青年の腹の黒さに、慧芽は顔を引き攣らせた。そんな男を「番い」と言ってはばからないヴェラのことを心底心配した瞬間でもある。情け容赦のない皇帝の下でヴェラが幸せになれるのだろうかと、ヴェラのことを案じた。当の本人は今ものんきに外の景色を楽しんでいるけれども。


 ここ数日は、ヴェラにとっても、かなり心身に負担をかけていた状況だった。今日くらいは羽を伸ばせることができるといいけれど……と考えて、慧芽は自分の心の声に苦笑する。


 うっかり竜の姿で、その雄々しい翼を広げるヴェラを想像してしまったから。


 もちろん比喩表現だけれども、実際にそうはできないからこそ、今日一日がヴェラにとって楽しいものになればいいと思い直した。


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