たぬきを撫でることに成功したヴェラは満面の笑顔になった。
「かわいいねぇ! もふもふしてる! ヴェラ、こんなに近くでたぬき見たことない!」
「そうなのですか? お山にいらしたとうかがっていたので、こういった獣には馴染みが深いと思ってました」
慧芽が素朴な疑問を投げかけると、ヴェラがしょんぼりと肩を落としてしまう。
「みんなねー、ヴェラがいるとすぐ逃げちゃうの。だからはじめて」
「なるほど……」
竜という生き物は、やはり他の生き物からも恐れられる生き物のようだ。ヴェラが幸せそうにたぬきを撫でているのも、今ここで人の姿を取っていなかったら、ありえないことだったのかもしれない。
その事実を再確認しつつ、慧芽は今日、ここに来た目的を達成すべく、ヴェラに向き直った。
「姫様」
「なぁに?」
ヴェラが小首を傾げる。紫の髪がふわりと揺れるのを見つめながら、慧芽は微笑んで手を差し伸べた。
「裏の庭にはもっとたくさんの生き物がおります。見てみませんか?」
「いきもの……」
ヴェラの目が輝く。
でもふと、その金色の瞳が不安そうな色に染まって。
「あのね、けーめー」
「はい」
「ヴェラ行くと、めーわくじゃない?」
慧芽はヴェラの言葉に耳を傾ける。
竜の姫君が不安に思っていることを、優しく丁寧に取り払ってみる。
「迷惑なんかじゃありませんよ」
「みんな怖がったりしない?」
「大丈夫ですよ。この子だって怖がってないでしょう?」
「うん……」
それでもヴェラは不安そう。
それならば、と慧芽はもう一つの根拠を差し出してみて。
「馬車の馬だって姫様を見てなんぞおびえることはございませんでした。大丈夫ですよ」
「うん」
慧芽がうながせば、今度こそヴェラはうなずく。
その様子を見た慧芽はさっそく席を立った。
「父様、私たちは裏へ行きます。父様はいかがしますか?」
「そうだねぇ。僕はちょっと克宇殿とお話をしているよ」
突然名指しされた克宇がびっくりしたように文章
仲のほうを振り向く。
「えっ。ですが、私は……」
「大丈夫、この屋敷の警護はばっちりだ。人の目より、よほど鼻のいい子たちがそろっているからね」
それとなく首に抱きにきたたぬきを撫でながら、文仲は言う。
困惑した様子の克宇だったけれど、家主の言うことだ。強気には出れずに、結局その場に留まることとなった。
慧芽はヴェラをうながすと、客間を出る。
それから見慣れた廊を歩いて、裏の庭へと進んだ。
裏の庭には大小の小屋が幾つもある。池も三つあり、そこで泳ぐ魚はすべて違う。草木もふんだんに植えられていて、まるで林を一つ、邸内に植えたような風景だ。
「わぁ……っ」
「うちは貧乏ですが、父の意向で、生き物たちの庭だけは常に手を入れているのですよ」
あちこちをきょろきょろと見渡すヴェラに、慧芽は微笑む。父自慢の庭だ。存分に見てほしい。
しばらく景観を見ていたヴェラが、不意につぶやいた。
「ヴェラ、ここ好き」
穏やかな木漏れ日のなか、ヴェラが気持ちよさそうに目を細めて。
「あたたかい。ヒューロの氷の山はさむかったけど、あたたかったんだ。ここも、すごくあたたかいね」
ヴェラの言いたいことは、すんなりと理解できなかった。でもよくよく意味を考えてみれば、きっと雰囲気が温かいと感じているのだろうと、慧芽は結論づける。
その感覚は間違ってない。
文仲が丹精こめて手づから弄っているこの庭は、生き物にとってとても居心地がいい場所らしい。
それというのも、文仲が怪我をした野良を一匹連れてくるだけで、数日後には五匹十匹と仲間が増えていることが多々あるからだ。
文仲は生き物を自ら飼い求めることはしない。もちろん、牛や馬や鶏はまた別だけれど、それ以外の生き物は皆、文仲を慕ってやってくる野生の生き物だ。
「姫様。今日一日、どうでしたか」
興味が惹かれるまま、ふわふわと足を運ぶヴェラに、慧芽は優しく声をかけた。
ちょうど池にかけられた小さな石橋に立って、池の中をのぞこうとしていたヴェラが顔を上げる。ヴェラはにこにこと満面の笑顔を浮かべていた。
「すっごく楽しかった! 食べ物おいしかった! 人もいっぱいいた! ここもすごく好き!」
「では姫様。姫様は皇帝陛下の番いとして、どうなさるべきか、何か感じ取れましたか」
「ふぇ……?」
ヴェラが不思議そうに首を傾ける。
これが一番大切なことだ。慧芽は腹に力を込め、しゃんと背筋を伸ばし、しかとヴェラを見つめ返した。
「姫様の旦那様は、この国の皇帝陛下でございます。皇帝陛下は国をお守りになるお役目を担われる大切な御方。姫様はその番いとして、この国を守るお覚悟はございますか」
それはきっと、今まで誰もヴェラへと求めなかったこと。皇帝さえもヴェラの手綱さえ握っておけば問題はないと考えていたのだろう。
だからこそ、無情にも鎖に繋ぎ、獣のように檻に入れることも躊躇わない。そして言い聞かせる、理解させることに注力しない。
それは、生き物と心を通わせることを尊ぶ慧芽だからこそ、気づいたことだ。