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第30話 妃の覚悟

 皇帝陛下はヴェラを愛でるけれど、それは人としてではない。よくて愛玩用の動物、もしくは便利な鷹狩り用の犬、はたまた番犬程度の認識に近い。それほどに彼女の扱いは「皇帝陛下の妃」としては不釣り合いな待遇だった。それはもちろん、最初の頃のヴェラの態度も悪かったのだろうけれども。


 けれども、と慧芽は思う。

 ヴェラは決して人のことを理解しないわけじゃない。


 過ごしてみてよく分かった。ヴェラは人としての常識を知らないだけで、その本質は人と同じ知的生命体であるのだと。


 だから言葉も通じるし、話ができる。獣のように一方的に命じるだけではなく、相互理解の果てにお願いするのが正しい。


 だから慧芽はヴェラに問いかけた。

 出会ったばかりの頃のヴェラならば、こちらの話に耳を傾けることすらしなかっただろう。


 だけど今は。

 信頼を勝ち取れた、今なら。


「くにをまもる、かくご……」


 ヴェラが小さな口の中で言葉を転がす。

 そわそわと体を揺らして、最後には困ったように慧芽を見た。


「ヴェラ、むずかしいことは分かんない……まもるって、何すればいいの?」

「それは姫様が、私たちにとって、どうするのが正しいのかを常に考えることです。たとえば主上がもし間違われた道を行くとき、姫様はお諌めできますか?」


 ヴェラは難しそうな表情で悩み始める。うーん、うーん、と唸って。


「わかんない。でもダンナサマのお願いはヴェラ聞くよ?」

「ではもし、主上が何も罪を犯していない私を殺せと命じたら。または、罪を犯した私を殺せと命じられたら。姫様はいかがしますか」

「ええっ」


 ヴェラが困り果てたかのように視線をうろうろさせる。慧芽がじっと見ていると、ヴェラは泣きそうな顔になって、うなだれる。


「けーめー、イジワル……なんでそんなこと言うの……」

「大切なことです。姫様は、お立場が皇帝陛下の次に尊いお方になられるのです。これは必要なことであり、ここで間違われるのであれば、姫様は皇帝陛下の番いとしてふさわしくありません」

「……っ」


 ヴェラの金色の目が怒りに染まる。ふわふわとしていた紫色の髪が風もなく浮かび上がり、バチバチと青白く閃光が走る。


 動物たちがざわついて、それまで穏やかだった庭の空気が一変した。慧芽はそれでも物怖じせず、ヴェラから視線をそらさない。


 これで間違えれば、ヴェラは二度と皇帝陛下からの信頼は得られない。


 だけど。


「姫様。よくお考えください。それは正しい選択でしょうか。常に、疑問をお持ちください」

「けーめーのばかっ!」


 バチッと慧芽の足もとに稲妻がほとばしる。一歩もひるむことなく、それを視線で追った慧芽は、次の瞬間には、ヴェラがまとっていた雷をすべて納めているのを見た。


「けーめーの言うこと、むずかしい。でも、今みたいなことは、ほんとーはダメなんだって、ヴェラ、わかるよ」


 伝わった。

 張りつめていた慧芽の肩からも力が抜ける。慧芽がその通りだと言わんばかりにゆったりとうなずけば、ヴェラの表情が比例するように凛としていって。


「だからね、けーめー。たくさん教えて。ヴェラ、どうすればいいの? ダンナサマといっしょにいるなら、さっきのけーめーの言葉、ちゃんと答えられないといけないんでしょ?」

「そうです。そのために私が姫様のもとへと遣わされました」


 ヴェラはこっくりとそれにうなずいて、一歩を踏み出した。


「ヴェラ、知らないことだらけなの。今日も知らないこと、たくさんあった。人のご飯があんなにもおいしいことも、人がどうやって生活してるのかも。ヴェラ、ぜんぜん知らなかった。たくさん知ったら、ヴェラもダンナサマといっしょに、くにを守れるかなぁ?」

「そうなれるよう、この慧芽がついております」


 慧芽もまたゆったりとした仕草でヴェラへと歩み寄る。そっとひざまずき、頭を垂れた。袖を合わし、頭上へと掲げる。


「けーめー?」

「我が姫ヴェラ様に誓いましょう。我が叡智をすべて賭して、貴女様を立派な淑女へ導きます」

「ん。よろしくね。けーめー」


 ヴェラがひょいっと膝を曲げた。主人への最上礼をとった慧芽に、気軽に視線を合わせてくる。慧芽は視線の高さが等しくなった無邪気は主人に笑いかける。


 慧芽の問いにヴェラは答えられなかった。

 でも答えられないことを、答えてくれた。


 それは竜であり続けたヴェラが、ようやく人間への理解を深めてきた証のよう。慧芽はそれだけでも自分の教えたこと、やったことは無駄ではなかったのだと実感した。


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