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第32話 武官の誓い

 文仲の言葉は、あまりにも皇帝に対して不敬だ。

 克宇はすっと表情を引き締める。


「あまりそういうことは、口にされないほうがいいと思いますよ」

「そうだねぇ。でも、そう思っているのは私だけじゃないと思うんです。娘もそれは理解している。だからこそ、姫君にあれだけ心を砕くのです」


 そしてそれは、皇帝の意図に対してぎりぎりの綱渡りをすることだと、慧芽も文仲も理解していた。


「諸刃の剣とはよく言ったものです。間違いなく竜の姫君は天峯国の諸刃の剣となるでしょう。今上陛下が賢君のままであれば、歴史にも稀にみる、素晴らしい治世となります。ですが、もし万が一……」


 文仲もまた、あまりにもそれは不敬が過ぎると思ったのか、言葉を飲み込んだ。克宇はその言葉の先に続いたものを想像し、ゆるりと首を振る。


「そんな未来は来ません」

「当然です。そのために私は娘を推薦したのですから」


 そう言って微笑んだ文仲に、克宇はなんとも言えないような心地になる。


「慧芽殿は離宮を訪れるまで、姫君が竜だったと知らなかったようですが」

「えぇ。伝えませんでしたから」


 にこやかに「ほっほっ」と笑う文仲は確信犯。克宇が眉根をひそめれば、文仲は窓の外で仲睦まじそうにしている二人の少女たちへと視線を向ける。


「あの子の目で見て、あの子がどう判断を下すのかを知りたかった。無謀だと思えば、それを皇帝陛下に奏上する気概はあります。ですがそうはしなかった」


 慧芽は梔家七才媛だ。

 自分で考え、未来を選べる力を持つ女性。

 だから文仲は娘に託した。


「娘は、竜の姫君と心を通わせられると判断したのでしょう。ですから克宇殿の仰るとおり、きっとそんな未来はありえませんよ」


 おっとりとそんなことをのたまった文仲の手の中で、たぬきの尻尾がゆるゆる揺れる。克宇はそんな文仲のたぬきっぷりに、してやられたとあきれてしまった。


 そのうえで、ただこんな世間話で終わるだけではないことも気づいている。そうじゃなければ、わざわざ二人きりで話を申し出る理由もなくて。


「結局のところ、この話の終着点はどこでしょうか。慧芽殿の如才ないところはよく理解しています。その上で、俺に何を求められているのでしょうか」

「あはは。まぁ、そんなに構えないでください。これは娘を持つ、一人の親としてのお願いですよ」


 文仲は朗らかに笑うと、すっと目を細め、ひたりと克宇を見据えた。


 微笑んでいるのに、瞳の奥に宿る強い意志のようなものは笑っていない。山の狩人のように射抜いてくるその視線に、克宇は背筋を伸ばす。その様子を見て、文仲はゆるりと口を開く。


「娘はひどく大人びていますが、まだ二十年も生きていない普通の娘です。どうか二度とあのような……娘が目が覚めないような事態になるようなことだけは、どうか」


 文仲の言葉には、懇願の色が含まれていた。

 その言葉が差すものの意味をくみ取った克宇は、口もとを引き結ぶ。


 思いだすのは、たった数日前の出来事。

 目の前で炸裂した紫の閃光。

 バチッと耳をつんざくような石火の音。

 頼りなく傾ぐ慧芽の身体。

 まだ鮮やかに脳裏に描ける、あの光景。


 克宇もまた、あのような心臓が握りつぶされるような思いをするのはごめんだ。


 理解しているはずだった。竜のそばに侍ることの危険さは、克宇も文仲も、賢い慧芽も知っていたはずだった。


 雷に撃たれた慧芽が皇帝陛下に判断をゆだねられたのは、改めてその覚悟を問われたのに等しい。


 慧芽は覚悟を見せた。

 雷に撃たれてもなお、紫雲竜ヴェラに仕えると、命を懸ける覚悟を見せた。


 だからこそ、娘の身を案じる文仲へ、真摯に、誠実に、向き合わねばならないと克宇は感じた。――きっもこの先、同じ竜の姫君に仕える者として、慧芽と克宇は長い付き合いになるから。


「約束します」


 ヴェラを、人に仇為す災いにしないこと。

 皇帝が賢帝の道からはずれたとしても、善を貫くこと。


 畢竟、これらは慧芽がいることで、すべてうまくいく気がするからこそ。


「慧芽殿の命が失われないよう、俺の全力で護ります。二度とあのようなことは、起きません」


 二度と、慧芽をヴェラの雷の犠牲にはしない。

 克宇の強い意志が伴った言葉に、文仲は重々しくうなずく。

 それに、と克宇は言葉をつなげた。


「それが俺の役目ですから。竜すら諌められるよう、精進いたします」


 何年、何十年先では遅すぎる。


 本当は今すぐにでも、竜の姫君を圧倒できるほどの力が欲しい。しかしそれは、人の身で到達するには、遥か遠い道のりでしかなくて。


 それでも。


「慧芽殿はきっと、歴史に名を残す女傑になります。そんな彼女に、俺も負けていられない」


 自分より年下な慧芽の隣で、凡庸でいるのは許されない。

 皇帝の信頼に応えるためにも、文仲の願いを守るためにも、克宇は今一度、己に誓う。


 強くなりたい。

 誰よりも強く。

 竜すら超えて。

 誰かを守るために。


 竜の姫君を、国の行く末を、導く慧芽を守るために。


 克宇はそう誓いを立てた。


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