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第34話 衣服の情緒

「もう大丈夫です。お二人とも、お騒がせしました」


 克宇も慧芽につられるようにほっと息をつき、ようやくひと騒動から開放されたと胸をなでおろす。対する馬典はからりと笑っていた。


「役得だったのに、残念でしたね」

「馬典殿……」


 克宇がなんとも言えない生ぬるい視線を馬典に向けたし、慧芽もじとりと不潔なものを見るような目で彼を見る。けれど馬典はそれに堪えることもなくしれっとしていた。


 そんな男二人からさっさと視線をはずした慧芽は、ヴェラの持っていた大根を回収した。かわりに厨の隅にある木箱から果物を手に取る。


「姫様、昼餉にはまだ時間がございますから、果物でもよろしいでしょうか」

「りんご!」


 にこにこ笑うヴェラを、厨の隅にあった椅子を持ってきて座らせた。その間に馬典には薪をしまってもらい、竈門に火を起こしてもらう。克宇には小刀と林檎、それから皿を渡して、ヴェラが待つ作業台で皮をむかせた。


 その間に慧芽は襷をかけて、食糧箱から野菜をいくつか見繕う。水瓶から水を汲み、ヴェラが握りしめていた大根を洗い、昼餉の支度に取りかかった。


 いつもなら慧芽一人、最近は馬典が手伝いに入るだけの厨に、四人もいるとなんだかにぎやかだ。広いはずの離宮で、居室ではなく厨に離宮の主人一同がそろっている。なんとも奇妙な光景に思いを馳せながら、慧芽はお腹を空かせたヴェラのために食事の支度を進めていく。


 今日の昼餉は魚のすり身の団子を入れた羹だ。馬典の希望は、今朝方供給された白身の魚があったのでそれで作ることにした。羹だけではヴェラや男性陣の胃は満たされないのが分かっていたので、慧芽は先に米を炊く。米を炊いたら野菜を切り、鍋へと次々に放りこんだ。


 せわしなく煮炊きする慧芽がくるくると動きまわっていると、克宇のむく林檎を大きな口いっぱいに頬張っていたヴェラがきょろきょろと視線を動かした。


「むぐぐー」

「姫君、口の中のものは飲みこまないと。慧芽殿に叱られますよ」

「んっ」


 克宇に注意されて、ヴェラはごっくんと口の中のものを飲みこんだ。ヴェラの喉を通っていった塊は喉をつまらせそうなほどだったけれど、竜の姫君はけろりとしている。


「ねねっ、けーめーは今、なにしてるの?」

「魚の団子を作るようです。小麦と一緒に練っていますね」

「お魚の団子……」


 林檎を食べながらじゅるりとよだれを垂らしそうなヴェラ。克宇は幼子を見るような温かな気持ちで二個目の林檎の皮をむき終わる。皮をむいた林檎は八等分にしてから芯を取り除いてやり、まだまだ小腹を空かせているヴェラのために皿に乗せてやった。


 追加された林檎にヴェラが手を伸ばすと、ちょうど慧芽はすり鉢で魚のすり身を練り上げたところだった。そのあとで、団子の形に丸めていく。


「まるい〜。あれはもう食べられる?」

「食べられますが、羹にしたほうがおいしいですよ」


 慧芽はヴェラの好奇心が大きくなる前に、でき上がった団子をぽとぽとっと鍋へと入れてしまった。ヴェラは残念そうにするけれど、慧芽は気にせず、調味料各種を入れて鍋の中身の味を整えていく。あとは団子と野菜に火がすっかり通れば完成だ。


 慧芽は戸棚から人数分の食器を取り出して盆に並べたあと、それとは別にもう一つ盆を用意した。そちらには茶杯を並べる。食事の合間に作っておいた茶壺ちゃふうの中身を茶海に移して、それも盆の上へと載せた。


「さぁ、ここには人数分の椅子がございませんから、居間に参りましょう」


 居間には大きな卓があるので、四人が並んでも優に食事がとれる。馬典に米の釜と羹の鍋をかけた火の番を頼み、慧芽は茶器を載せた盆を持って、ヴェラと克宇と共に厨を出た。


「昼餉の前に、姫様は一度きちんとお衣装を着ましょう。その間に昼餉もできますから」

「このままじゃだめ?」

「いけません。そちらは夜着で、主上のいらっしゃる後宮では、もっとずっと長くお衣装を着ていただかねばなりませんから」


 居室の卓に茶器を置いた慧芽は、そのままヴェラを連れて衣装部屋へと向かう。克宇もまた二人について行き、何かあればすぐに対応できるよう、出入り口に護衛らしく陣取った。


 そんな克宇に見送られ衣装部屋へと入り、その中心にヴェラを立たせた慧芽は、さっそく本日の衣装を見繕う。重たい衣装に慣れてもらわないといけないが、それは午後の礼儀作法の時でいいだろう。上衣、帯、裳を見繕い、他の細々とした物は礼儀作法の前に着つけることに決めた。


「今日の気候は温かいものですから、春の匂いを感じられるよう紅赤のお色を使いましょう。上衣は白、裳は淡い紅染めのものにして、帯で全体のお色を引き締めます」


 慧芽はヴェラに言い聞かせるように衣の色選びを口ずさむ。こうすることで、季節感という言葉にできない曖昧な情緒をヴェラにも覚えさせていく。


 いつかはヴェラも、自分で好きな衣を選び取れるように。慧芽は色の名前や色の組み合わせを丁寧に言い聞かせながら、ヴェラにそれぞれを着つけた。


「梅や桃のように、春は暖かいお色の花が多く咲きます。姫様もそんな花の一輪となって、主上にお目通りできるようにいたしましょう」

「ヴェラ、竜だけどお花になるの?」

「喩えですよ。お花のように愛らしいお色を見れば、人というのはその色を身に着けた人も愛らしいと思うものです」


 慧芽の言葉は多少誇張表現も入るものの、おおむね間違ってはいない。とにもかくにも、ヴェラに人間らしい情緒を教えるには少しくらいおおげさなくらいのほうが、彼女もよく覚えてくれると慧芽は学んでいた。


 ヴェラは少し窮屈な衣装にむずむずとしている。以前のように、目を離したすきに服を脱ぎ去って逃亡するようなことはなくなった。それでもお腹が苦しいと言って、食後には服を脱いでしまいそう。今の課題は食後もこの正装をどうやって維持させるかだ。


 本当は髪もきっちり結い上げたい。とはいえ、あれもこれも欲張るとヴェラが嫌がる。そちらは食後のゆるい衣装の時に慣らさせることにし、慧芽はヴェラの支度を整え終えた。


「さ、これでよろしい。可愛らしいですよ、姫様」

「ん! じゃあ、ゴハン!」


 ついさっき林檎をまるっと二個食べたのに、まだまだヴェラの胃は満たされていないようだ。ようやく食事にありつけると目を輝かせるヴェラに、微笑ましい気持ちになった慧芽はゆるりと頬をゆるめた。


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