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第35話 姫君の異常行動

 慧芽が厨に戻ると、馬典が椀や匙を丁寧に磨いていた。


「そのようなこと、私がしますのに」

「いえ、手持ち無沙汰だったもので」


 馬典がにこやかに、手に持っていた匙と布を作業台へ置く。その傍らに見慣れない壷が置いてあった。


「馬典様、こちらは」

「ああ、磨き粉のようなものです。植物由来のもので、口に入れても大丈夫なものですよ」

「凝り性なのですね」


 まさかこの短い時間に、磨き粉まで取ってきて作業するとは慧芽も思っていなかった。馬典の細やかな気遣いに感謝して、磨かれた器を改めて盆の上に並べてもらう。


 その間に慧芽は羹と米の出来具合を確認した。羹は鍋ごと運ぶことにして、米は櫃に入れ替えた。慧芽が米櫃と食器を載せた盆を持つと、馬典が鍋を持ってくれる。二人並んで居間へと向かえば、居間の扉がすっと開いた。


「代わりますよ」

「いえ、私が」

「お気になさらず」


 慧芽たちの気配に気づいた克宇が先に扉を開いて、慧芽の持っていた盆を取り上げてしまう。慧芽が困ったように克宇を見上げれば、彼はにこやかに笑って、さっさと食卓に盆を置いてしまった。


 鍋を持っていた馬典も食卓の上にそれを置く。ヴェラが食事の匂いにつられて、うきうきしながら食卓の席へと寄ってきた。


 四人が卓につくと、慧芽がかいがいしく食事の世話をする。米をよそい、魚の団子の入った羹もよそって、それぞれの前へと並べる。ヴェラに食前の挨拶をうながせば、たどたどしくも礼儀作法に則った口上を述べて、匙を手に取った。


 以前のように鷲掴みで食べたり、皿ごとかじったりはしなくなった。まだ箸は使えないけれど、匙で器用に汁をすするヴェラは、慧芽の教育の賜物だ。


「んぐ、むぐ、んぐ、?」

「どうかされましたか、姫様」

「んー……んー? これ、なに?」


 ヴェラがなんだか変な顔をした。

 慧芽は訝しげに視線を向けながらも、ヴェラの問いかけに答える。


「魚と、大根と、小松菜です。味つけは魚醤を使っているので、少し癖がございます」

「ふぅん?」


 ヴェラはいったんは納得したものの、そのあとの匙の動きがいつもより少し鈍くなったようだった。いつもなら鍋が空になるまでおかわりするのを、今日は半分も食べないうちにおかわりをやめてしまった。


「ごちそうさまー」

「姫様、どうされましたか? お味がお気に召されませんでしたか」

「んー……ん。なんか、変な味した」


 慧芽にとってはいつもの食事だ。特別おかしな物を作ってはいないけれど、何かがヴェラのお気に召さなかったらしい。原因はどれにあったのかを探ることにして、慧芽もまた自分の羹へと箸をさしいれた。


 ◇   ◇   ◇


 ここ数日、ヴェラの様子がおかしい。

 食事の量は減り、最近は減っていたはずの異常行動が見られ始めた。


 というのも、衣服とともに身に着につけられた宝石をぺろぺろと舐める。じぃ、と見つめてぺろりと舐めるだけで終わるだけの日もあれば、一心不乱にぺろぺろと舐めしゃぶっている時もある。


 いったいどうしてと頭を抱えていたら、宝石だけじゃなくて、拾い食いも増え始めた。爬虫類を取ってきては、こっそりと飼って食べている。朝、起こしに行くと、爬虫類の残骸や血の跡で寝台が汚れていて、すんでのところで悲鳴をあげかける日々だ。


 この異常行動の原因は明らかに減っている食事量によると思われるのに、慧芽はその解決策が分からずに頭を悩ませている。使用する食材は以前と変わらない。調味料も腐っているわけではない。一番最初に食欲不振になった時に使用していた馬典の磨き粉を疑ったけれど、食器をすべて新しいものに入れ替えても効果はなかった。


 ヴェラも自覚があるのか、食事の時になると少し落ちつかなくなる。とはいっても、ヴェラ本人も何がいけないのかが分かっていないようで、解決には至ってない。


 慧芽は、このままではヴェラが人の身での食事を嫌がるのではと不安を感じ始めた。けれど、当のヴェラは竜の本能のように宝石を舐めたり爬虫類を取ってきたりするだけで、けろっとしている。たぶん、本能的に身体が欲しているものを理解しての行動だと慧芽は察したので、無理にその行動をやめさせようとはしなかった。


 それでもお披露目まではもう間近だ。お披露目の時にこのような行動をされては、色々と大問題になるのは目に見えている。慧芽はなんとかこれの原因を探ろうと、寝る間も惜しんで竜に関する文献をあさった。


 今も手燭の灯りを頼りに、皆が寝静まったあと、慧芽は取り寄せた書物を読みふけっていた。日頃から書き留めている竜の姫君の観察記録も書き物机に広げ、気になる事項がないか、一からさらっている。


 これは、生き物に精通している者にしかできないことだ。父にも文を送って助力を乞うているけれど、これといった原因にはたどり着かない。


(おそらく、何か毒のようなものが体内に入っているのは間違いないわ。鉱物を舐めるのはそれを中和するためなのかもしれない。でも毒と仮定しても、そもそも竜と人間では身体の作りが違いすぎる。人間にとっての毒が竜にとっての毒にはならないし、逆もまたそう……)


 その前提があるからこそ、あらゆる可能性が多方向に広がりすぎて、手をこまねいている状況だ。


 その上、竜は一頭だけ。ヴェラ本人に毒かどうかを実験のように試させるなんてこと、できるはずもなく。


 ほそぼそと一つ一つの可能性を当たっていく。本当はヴェラに血を分けてもらい、父の協力の下、梔家の医学生に竜の血が持つ耐性を調べてもらいたい。他にも、鉱物に詳しい学生に鉱物による毒の中和例を聞くこともできるはず。とはいえ、機密事項の多いこの離宮の中、それが許されるのかどうか。


 手燭の灯りの中、それらをつらつら思案していると、こつこつと音がした。


 慧芽は視線を上げる。摺り硝子の嵌め込まれた扉を透けてその向こう側で揺れる手燭の灯りが、廊下の様子をぼんやりと教えてくれる。


 いつかと同じような光景に、慧芽は口もとをゆるめながら書き物机に向き合うのをやめた。

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