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第36話 夜咄もほどほどに

 もうすでに夜着になっていたので、羽織を一枚持ってきて、落ちついて袖へと通す。

 それから扉へと歩み寄った。


「こんばんは、克宇様。こんな夜中に淑女の部屋へ夜這うのは、あれきりではありませんでしたか」

「あ、ははは……いや、まだこんな時間まで灯りがついていれば、心配しますよ」


 慧芽がからかいの言葉とともに扉をあけると、少しだけ気まずそうに苦笑した克宇が昼間と同じ武官の出で立ちでそこにいた。


 克宇は夜着姿の慧芽に少しだけ気後れしたようだったけれど、部屋をちらりとのぞく。書き物机に書物や巻子が積まれているのを見て、眉を寄せた。


「ここ連日、遅くまで灯りがついていますが、あまり根をつめすぎては駄目ですよ」

「ご心配、ありがとうございます」


 夜遅くまで調べ物をし、朝は早くから離宮の雑事をこなす。一人の女性がするには負担がかかりすぎているのは明確だ。


 けれど慧芽は克宇の気遣いに微笑みながら、なんてこともないように心配は不要と言葉を返す。


「徹夜は慣れておりますから。調べ物を始めてしまうと、夜はあっという間に明けてしまうものです」

「徹夜なんていけません。慧芽殿はもう少し休まれるべきです。日中は化粧で隠されているようですが、ほら、顔色が悪い」


 克宇は手燭の灯りの中、証拠だと言わんばかりに慧芽の目もとに触れた。そこには慧芽が毎朝白粉で隠している隈がある。手燭だけの灯りでは分からないだろうと踏んでいたのに、克宇はあっさりと見つけてしまった。


 慧芽が寝不足のひどい素顔を見られてしまったことに気がついて、思わず羞恥で一歩足を引く。よろめいたと思ったらしい克宇に背中を支えられて。


 ぐっと克宇と慧芽の距離が近づいた。

 克宇の真剣な表情が、慧芽の視界いっぱいに広がる。


 あと少しでも近づけば、顔が触れてしまいそうな距離。慧芽は思わず呼吸を止めた。


「……言っているそばから。今日はもう、寝てください」

「い、いえ、これくらい」

「慧芽殿」


 克宇の厳しい声に、慧芽も口をつぐむ。

 近すぎる距離に、言い募る言葉がすっかり飛んでしまった。慧芽が小さくうなずけば、克宇は慧芽の背中にまわしていた腕をほどく。


「慧芽殿は日中の姫君のお世話と、妃としての教育をなされるのがお役目です。その合間に気づいた取り留めのないことを、報告されるだけでも十分なんです。そうしたら、主上が暇な学者を集めてくれますから」


 今回の食欲不振のこともそうで、慧芽が一人で背負い込む必要はなかった。


 後宮にいた時、ヴェラの食欲は日によってまちまちだった。その頃は単なる好き嫌い、竜の味覚によるものと、犬に餌をやる感覚で適当に流されていた。


 離宮に来た頃も始めは食べたり食べなかったりだったけれど、根気よく慧芽がヴェラに付き合ってからはそれも改善された。例の人間にとっての殺人料理の頃からは特に、ヴェラの食欲というものは細くなるどころか旺盛さを増していた。


 だからこそ、慧芽は急激に食欲がなくなったヴェラに違和感を持ち、この現状を重く見た。ヴェラをきちんと人として扱うからこそ、その原因を詳細に探ろうとした。


 けれどそれをするには、圧倒的に慧芽一人だけの時間では足りないし、そもそも慧芽の役目ではない。それを補うのは、慧芽じゃなくていい。


「焦らなくても、大丈夫。慧芽殿だけではありませんから」


 まるで幼子をなだめるような、柔らかな声。

 克宇のねぎらいに、慧芽は深く息を吐く。張っていた肩から自然と力が抜けた気がした。


「申し訳ありません。披露目が近いせいか、焦っておりました。宮城は私以上に優れた方々の集う場所です。私が出しゃばるようなことでは、ありませんでしたね」


 自嘲気味に肺の底から吐きだすように言えば、克宇は目を瞠った。どうやら克宇が言いたかったことは別だったようで、慌てて言葉を取り繕い始める。


「そうじゃないです。ええと、ああ、なんて言えばいいんだろう……。その、慧芽殿が与えられた役目以上に真摯に姫君のことを考えているのは、主上もご理解していますし、そのことを評価されています。だから、その、……無理なく、ほどほどに?」


 言い繕っても、あまり良い言いまわしは思いつかなかったらしい。最終的には月並みな言葉しか言えなかった克宇に、慧芽はなんだか気が抜けてしまった。


 気が抜けると表情もゆるむ。ついつい笑ってしまった慧芽は、克宇の気まずそうな表情をそっと見上げた。今度こそ、ちゃんと肩の力が抜けた気がする。


「お気遣い、感謝します。私のお役目を見失うところでした。克宇様にも意気地の悪いことを言ってしまいましたね。許してくださいますか?」

「いえ、そんな、謝られることなんて」

「いいえ、大切なことです」


 克宇には救われてばかりな気がした。

 離宮に来たばかりの頃や、先日のヴェラの一件。

 そして今。


 慧芽は穏やかな気持ちで、克宇の人好きする顔立ちを見つめた。


「克宇様は初夏の風のような方ですね。克宇様の言葉は、雨季のあの湿気った空気を一新してくれる風のように、心の曇を晴らしてくださいます」

「そんなことは」

「ふふ、本当ですよ」


 照れたらしく、克宇は頬をかいた。慧芽は口もとを袖で覆い、くすくすと笑う。


「ありがとうございました。克宇様に叱られてしまいましたので、もう片づけて眠ることにします」

「ぜひ、そうしてください。三日後には後宮から披露目の段取りや引き継ぎのために人が来ます。これまで以上に忙しくなりますので、今のうちにゆっくりしてください」


 慧芽は克宇の忠告をよくよく胸に留めた。

 慧芽が離宮にきて、もう間もなくひと月経つ。

 淑女教育も大詰めで、今の慧芽の最大の関心はヴェラの披露目に向かうべきだった。


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