手渡された黒い瓶の中にはたっぷりとした水のようなものが入っている。慧芽がその瓶を開けて匂いを嗅げば、きつい酒精の香りがした。
「これは
竜も仙も酔わせるという酒は、その名のとおり、竜であるヴェラを眠らせたらしい。慧芽はふと、克宇から聞いた、ヴェラをこの離宮に移送させた時の話を思いだした。
「もしかして、姫様を離宮にお移しになられたときに使用したのも?」
「お知りでしたか」
白梅が是とうなずく。
慧芽はそのあとの様子を知っているので、苦く笑った。慧芽が初めて離宮に来たのはその翌日のこと。出会い頭に離宮内を散らかしに散らかして、見繕った宝飾類をよだれまみれにさせていたヴェラを叱ることから始まったから。
そこでピンと慧芽の頭の片隅に何かが引っかかる。
「酒と宝石……」
ぽつりとこぼして考え込みだした慧芽に、望月が「なにか気になることでも?」と問いかける。
慧芽は一ヶ月前のことを思いだしながら、おもむろに白梅のほうを見た。
「この酒は、どなたがご用意を?」
「たしか武官の方だったとうかがっております。人聞きでしたので、お名前までは」
「その武官でしたら、飛馬典殿ですよ。確か今、こちらに配属が変わったと聞きましたが」
白梅の言葉を引き継ぐように望月が教えてくれた。
意外な人物の名前があがり、慧芽は目をまばたく。
「馬典様が?」
「なんでも、ヴェラ妃様に手をこまねいていた護衛武官の友人だったそうで、ちょっとした冗談からの思いつきだったそうですよ。それが思いのほか、うまくいった形です。今回の配置替えも、彼の機転を期待してのことではないでしょうか」
後宮周りの人事に詳しいらしい望月が教えてくれる。機密ゆえ極少人数でのこの離宮にどうして彼があてがわれたのかが分かり、慧芽は納得した。その最初の仕事が牢番だったのはなんとも言えないけれども。
「どうしてこの酒を進言したのか気になりましたが、そういった経緯でしたら、本当に偶然のたまものだったのでしょうね」
「そうですね。武官の間ではちょっとした話の種にはなっているようですが」
その発想はなかった、自分が進言できれば、と武官たちの一部では悔しがる声も多いらしく、望月がそんなことまで教えてくれる。
こういったものは思いついた者勝ちだ。返す言葉に困り、慧芽が曖昧に微笑んでいれば、白梅が望月の言葉を完全に無視した様子で慧芽へと視線を向ける。
「酒のことで気になることがありましたか」
「……些細なことですが、離宮に来られた頃の姫様の異常な行動と、酒になにか関係がないかと考えたのです。最近また、似たような行動をされるようになったので、原因を突き止められたらと思いまして」
この酒を使えばまたヴェラの異常行動が増えるのではないかと予測している慧芽に、白梅が感心したように初めて笑みを浮かべた。白梅の黒く縁取られたきりりとした眦が、優しく垂れ下がる。
「慧芽様は、ヴェラ妃様にとって、良き女官であられますね」
「そんな、おおげさでございます。後宮女官の方々なら誰しも考えることでしょう」
「そうですね。主人が人の身であれば、確かにそうでしょう」
白梅の含みのある言葉に、慧芽は察した。
ヴェラがどうして離宮に移されたのか、その経緯を思いだす。
女官たちにおびえられ、武官に怖れられ、人としての扱いすら受けられなかったヴェラ。酒を仕込まれ、眠らされ、罪人を輸送するようにこの離宮にひっそりと運ばれてきたその扱いは、皇帝の番いとは到底思えなかった。
慧芽がそのことを思いだして口もとを引き結ぶと、白梅は元の生真面目な表情に戻る。
「貴女のような方がいれば、ヴェラ妃様もご安心でしょう。どうか後宮でもヴェラ妃様のお味方でいていただけませんか」
白梅の思いがけない言葉に、慧芽は目を瞠る。それからすぐに首を振った。
「いえ、私は正式な女官ではありませんから。一時の雇われでございます。後宮へのお仕えは、また別の話でございますから」
「そうですか……私はてっきり、ヴェラ妃様に着いてくるものだと思っておりました」
「私が命じられましたのは、姫様の教育係でございます。女官の真似事もいたしましたが、妃としての振る舞いを身につけられましたら、私はお役御免となりましょう」
慧芽にくだされた勅命は、ヴェラを淑女として、皇帝の妃としての振る舞いを身につけさせることだ。妃としての振る舞いを身につけなければ、ヴェラはそもそも後宮へ上がることは許されない。逆に言えば、ヴェラが後宮へと上がることができたら、慧芽に与えられた使命はまっとうされたともいえる。
「姫様は日に日にお美しくなられています。竜としての強さが凛々しさになり、その言動の愛らしさは、皇帝陛下の癒やしにもなられるはずです。今の姫様であれば、私がいなくとも、もうおびえられることも、怖れられることもないでしょう」
ほんの少し。
ほんの少しだけ、竜が人と違うことを受け入れ、それを生活に組み込みさえすれば、ヴェラは天真爛漫なそこらの少女と変わらない。野生児だった少女も今や服を着ることを覚え、礼節のある挨拶を交わし、食事はきちんと食器を利用する。
もうヴェラは普通の人としての当たり前は身につけられた。妃としての行儀作法もまた、おおよそ合格基準にまで近づいてきている。
もうすぐ巣立つだろう姫君。
慧芽は感慨深くなって、このひと月のことを思い返し、そっと微笑を浮かべた。