もう時刻は酉の刻に差し迫ろうとしていた。
日は沈み、あたりは夜の帳が降りてきている。今夜は新月のようで、手燭がないと夜道を歩くのすら心もとない。
「こくうー、けーめーいないよぅ」
「馬典殿も見えません。外には出ていないそうなのですが……」
馬典が配置されるのと同じ頃に、離宮の門前には門衛が立つようになった。彼らに聞いても、慧芽と馬典の姿は見ていないと言う。
こういう時、広い離宮に少数精鋭での配置はひどく不便だ。人里離れているので、目撃する人間がそもそもいないというのは、人探しに不利になる。不安にかられてそわそわするヴェラの傍らで、克宇は険しい表情で腰に佩く剣の柄を握った。
慧芽と馬典の身に何かあったのは間違いない。いつもなら慧芽は夕餉の支度ができると、ヴェラを呼びに来るから。なのに今日は夕餉の時刻になっても姿を表さなかった。城の遣いとのやり取りが長引いているのだろうと四半刻ほど待ったけれど、とうとうお腹を空かせた姫君が慧芽に直談判に行く! と居室を出たところで、ことが発覚した。
まず応接室に慧芽の姿はなく、それなら夕餉の支度をしているのかと厨へと向かった。厨には作りかけの麺生地と、不自然に作業台に置かれたままの玉菜。人影はどこにもなく、作業途中だったのだろうそれらが、そのままで放置されているのが気にかかった。
食糧庫のほうにいるのかと見てみても、誰もいない。他に不自然なことはないかとあちこち調べて見るけれど、争ったような形跡なども何もない。ただ、厨にあるべきものが、一つだけ消えていた。
ただごとではないと思った克宇が門衛にも声をかけ、離宮内の捜索を開始したのは早かった。
どこを探しても慧芽がいない。
慧芽だけではなく馬典の姿も見えず、二人がどこに行ったのか、まったくの手がかりもなく、克宇は歯噛みした。
ヴェラも慧芽が何も言わずに姿を消したことを不安に感じているようで、自分から慧芽を探しに行くと言ってきかない。
「賊が忍んでいるのかもしれません。姫君は俺のそばから離れないようにしてください」
「でも、二人で探したほうが見つかるよっ!? ヴェラ、ゾクなんて怖くないもん!」
「いえ、姫君がうっかり賊を再起不能にさせないために、離れてほしくないんです」
「う……、ヴェラ、そんなこと、たぶん、しないよ……?」
ヴェラ自身、このひと月でずいぶんと慧芽から学んだことが多く、今では自分の膂力が人の何倍もあることを十分に理解していた。だから克宇が言いたいことをなんとなく察し、自信はないながらも否定してみせる。
そんなヴェラの様子に、克宇は少しだけ余裕が戻ってきた。焦ると周りが見えなくなる。一度気持ちをを落ちつけて、最善の策を取るべきだ。そう思いながら、思考を回転させていく。
「ひとまず門衛と合流しましょう。それから城に報告をして、人員を増やしてもらったほうが……」
克宇が話している途中、ふとヴェラが顔を背けた。
結っていない癖の強い紫の髪が、風に逆らうようにふわふわと浮き上がる。
「姫君?」
「イヤな匂いがする。なにこれ。ヴェラきらい」
眉をひそめて、ヴェラが鼻をひくつかせた。満月の色をした金の瞳が夜闇に怪しく輝く。
ヴェラがこうも顕著に嫌悪感を示すのは珍しい。イヤダイヤダと駄々をこねるのが常だったヴェラの、まるで威嚇するような姿に、克宇は気を引き締めた。
「いやな匂い、ですか」
「うん……あ、これ、ゴハンに入ってたのに似てる、かも? あれをもっとひどくしたら、こんな匂いになるかもしんない」
克宇の表情が険しいものへと変わる。
間違いなくただごとではないと判断した克宇は、ヴェラにその匂いがするほうへと導いてもらう。ヴェラは鼻をひくつかせ、嫌そうに顔を歪めながらも、克宇の言うように匂いを辿ってくれた。その先に。
「……馬典殿?」
暗闇の中から、ふらりと一人の影が現れる。
本殿から離れた、離宮の奥まったところにある小屋。馬典がちょうどその小屋の扉の前にいるのを見つけた。
この小屋は、ヴェラが以前、罰として捕らえられたときに使用された、地下牢へと続く入り口だ。普段は鍵が閉まっていて、先ほども入れなくて通り過ぎたばかりだ。この小屋の前に、どうして馬典が。
「克宇様。いかがしましたか? ……て、ああ、夕餉でしょうか。すみません、少々立て込んでいまして」
「馬典殿を探していたんです。今までどちらにいらっしゃったのですか」
「ああ、それならいれ違いになっていたのでしょうか。私は慧芽殿を探していたんですよ。水汲みを頼んだら、なかなか帰ってこなくて」
暗闇で馬典の表情は見えない。あまり感情が乗らない馬典の声音からはいつもの飄々とした調子しか読み取れない。そんな馬典から違和感を感じ取った克宇は、そっと腰にある剣の柄へと指を伸ばした。