「水汲み、ですか」
「ええそうです。やはり女性に重いものを持たせるのはと思って、慌てて追いかけたんですがね」
「本当に水汲みを? 厨の水甕には不足がないほどの水が貯められていたと思いましたが」
克宇は、あの不自然に作業が止められた厨の様子をきちんと見ていた。当然、井戸に向かう可能性も考えて、水甕の中をのぞいていたけれど、多少は減っていても、この夕餉の時刻に水汲みに行く必要があるような減り方はしていなかった。
それに何より、あの厨から消えていた物は、水なんかではなく。
「ところで馬典殿、火打ち石はどうされましたか? 厨からなくなっておりましたが」
「火打ち石、ですか」
「持っていますよね。――そこを退いてください。煙臭さが、にわかに漂ってきています」
疑問形で問うまでもなく、克宇は断定し、剣を抜いた。
嘘をつくなら、もっとうまく隠してほしかった。ここまで近づけば、克宇にもわずかに風に乗る匂いに気がつく。
地下牢には空気を入れ替えるために通気口がある。通気口はこの小屋の周辺に設置されているので、ここまでくれば、克宇にもヴェラの感じた異臭を感じることができた。そしてその異臭はまさしく。
「地下牢で何を燃やしたのですか……!」
この煙臭さは何かを燃やさないと生じない。剣を構え、克宇は馬典を威圧した。克宇から放たれた覇気とも言われるそれを、馬典は正面から受ける。
その表情は笑っていた。
「そうやって人がやったと決めつけるのは、良くないと思うんですがね」
「違うならばいいのです。大人しくそこを退いてくだされば、嫌疑も晴れるでしょう」
「そうですねぇ」
馬典はちらりと背中越しに小屋の扉へと視線を向ける。改めて克宇のほうへと向き直った時には、不敵な笑みを浮かべていた。
「段取りに手間取った己の不甲斐なさを呪うべきでしょうが……――あの女官の口さえ封じれば、我々の未来にはまだ、希望があるということで」
馬典が身をひるがえす。
追いかけるべきかどうか、克宇は一瞬逡巡してしまった。
今、馬典が不吉なことを言っていた。
女官の口を封じれば。
この離宮にいる女官といえば、一人しかいない。
けれど、ここで馬典を逃すのは――
「こくう、行って!」
「姫君?」
「けーめーはヴェラが助けるよ!」
言うや否や、ヴェラの身体からバチッと紫電がほとばしる。えいや、とヴェラが拳に紫電をまとわせて扉を殴りつけると、小屋の扉は壁ごと大穴が開いた。
「……さすが姫君です」
鍵がかかっていたはずの小屋の扉があっさりと開通し、克宇は頬を引き攣らせた。
「けーめー、この下だよね! ヴェラが前いたとこ!」
「は、はい」
「いっぱい道あったよね。さがす時間もないんだよね」
ヴェラは子供とは違う。自分が以前置かれていた状況も、今の緊迫した状況も、きちんと理解して克宇と認識を共有してくれる。
克宇はヴェラの言葉に頷いた。
「火の手は間違いなく、慧芽殿のそばにあるはずです!」
「わかった! 行ってくるねっ! こくうはワルイやつ、つかまえて!」
そう叫んで、ヴェラは煙の充満する小屋の中へと消えていく。克宇もまた灯りを吹き消した手燭をその場に捨て置き、すぐさま走りだす。せっかくヴェラが気を利かせてくれたのだから、馬典を何が何でも捕縛しなければ。
克宇は馬典が逃げたほうへと駆けていく。月明かりがなく視界は暗いけれど、それは相手も同じこと。けれど克宇の、目を閉じていてもヴェラの気配を追える人並みはずれた身体能力であれば、逃げだした馬典を追いかけるくらい、難しくはなくて。
先ほどは不便だと思った離宮のこの人気のなさが、今では克宇に有利に働く。一度は消えかけた馬典の背中を視界に捉えた。
駆ける足へとさらに力を込め、克宇は抜き身の剣を逆手にし、速度を上げる。草の根を踏む音、砂利を蹴飛ばす音に気がついた馬典が、こちらを振り向いた。何かを投げつけてくる。
瞬時に剣を盾のように構えた克宇が、それを弾き飛ばす。キンッと音を立て火花を散らしたそれは、おそらく火打ち石だ。もう一つ飛んできたそれも、同じように克宇は剣で弾く。
その間も、馬典との距離は縮まって。
「なんでひるまないんだっ!」
「これしきのこと。祖父の山籠り修行に比べたら可愛いものです」
克宇の生家である関家は武官の家だ。その修行は過酷なもので、克宇も幼い頃から骨身に染むほどの研鑽を積んできた。だからこそ、こうして皇帝陛下の覚えがめでたい武官の一人として名を連ねているのであり。
「これくらいこなせなくては、竜には立ち向かえません」
馬典まであと一歩のところで、克宇は跳んだ。
馬典の頭上を越え、その目前に着地する。
関克宇という武官が秀でているのは、その人並みはずれた身体能力だ。剣技の技巧はもちろんのこと、彼が並いる武官の中から、竜の姫君付きの護衛を任されたのは、この身体能力があればこそ。
そして何より、彼には勇気がある。
竜だろうと、悪人だろうと、それらに対峙するための勇気が。