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第43話 化け物と悪女

 慧芽がむせるような酒精に意識を取り戻すと、見覚えのある地下牢の鉄格子の向こうで、馬典は酒を撒いていた。


 馬典が手に持っていた酒瓶は、ちょうど昼に白梅から受け取ったもの。使うことはあるまいとしまっておいたはずなのに、それを馬典は檻の外で撒いていた。


 そして目が醒めた慧芽に向かって、こう言った。


「化け物とともに国を滅ぼす、悪女め」


 床に撒いた酒に、火打ち石で火花を落とされた。一瞬で炎が巻き上がり、鉄格子の向こうは炎で覆われた。慧芽は身をよじったけれど、薬のせいか、身体がひどく重たくて動けない。


 ぼんやりとする思考の中、揺らめく炎を見つめて、慧芽は後悔した。


 どうして馬典のことに気がつかなかったのか。酒と馬典との結びつきに気がつき、彼が来てからのヴェラの行動の変化を知りながら、どうして。


 馬典がヴェラを恨んでいることを知らなかった。皇帝から直々に配属されているというこの離宮の人員の中に、それほどに竜を憎むものがいるなんて、思ってもいなかった。


 けれどよくよく考えれば、それも至極当然のこと。


 後宮でひどく恐れられていたというヴェラ。馬典がどうしてあんなに竜を憎むのかは知らないけれど、そもそも災厄と呼ばれるのが竜という存在なのだから、理解できないことではなかった。


 とはいえ、そんなことを今さら考えても、詮なきこと。今の慧芽に、何かを成すすべなどなくて。


(悔しい。私、何もできてない。姫様を立派な淑女に……竜のことだって、歩み寄れる隣人なのだと、もっと、たくさんの人に伝えたかった)


 まぶたを閉じる。炎の勢いは増し、煙がだんだんと地下牢の中に充満し始めて、慧芽はけほけほと力なく咳き込んだ。


 苦しい。

 熱い。

 生きたい。

 もっとやりたいことがある。

 私はまだ、何も成していない。


 ぐるぐると渦巻く無念。

 炎に巻かれる恐怖とともに必死に飲み下していれば、ふと走馬灯のように、誰かの声が胸の奥からにじみ出る。


『そこは歴史に残る七才媛のようになると、意気込むところでしょう』


 後ろ向きになりそうな時に声をかけてくれたのは、いつだって、あの優しい武官だった。


 慧芽は瞼を開く。

 ぐっと、重たい体に力を入れる。


 まだこんなところで、朽ちたくない。

 歴史に残るようなものを、何も遺していない。


 慧芽は自分の立志を思いだす。

 誰かに誇れる自分になりたかった。


 幼い頃に母を亡くしてから、父を師と仰ぎ、邸にくる学生たちにまぎれて学問を修めた。学問を学び、動物と戯れることが好きだった。本気で動物と会話ができると信じて、誰よりも学んだけれど、そんなことは夢のまた夢だと馬鹿にされ、せっかく極めた学問も無為となった。さらには現実を突きつけるように父の学問所は過疎化していき、七才媛とは名ばかりで、父とともに落ちぶれた。


 その自分が今、ようやくその才能を存分に奮うことを許された。天災とも呼ばれた竜のそばに侍り、言葉を交わし、その生態を解き明かす。


 多くの人が嫌厭する中で、慧芽だけができること。これを成し遂げるまで、慧芽は死ねない。成し遂げ、後世に遺し、先人の一人として名を刻みたい。


 今なお語られる、かつての七才媛のように。


 慧芽は震える腕に力を込めた。

 炎がまわり切る前にここから逃げだそうと、身を起こす。


 そんな慧芽を天が見ていたのか。


「けーめーっ!」


 ドガンッと、派手な音が響いた。

 重たい首を巡らせて、慧芽は橙の炎の向こうから聞こえた声を探す。


「けーめー! けーめーどこ! お返事して!」


 地下牢に響き渡る、よく知る声。

 毎日毎日、飽きずに言葉をかわし、叱り、微笑み、立派な淑女にすると約束した、竜の……私の、姫君。


「ひめさま」


 一つ息を吸い込むだけでも、喉が焼けそうだ。

 ささやくような声で、慧芽は乞われるまま、主人を呼んだ。


「けーめー!? そこなのね!」


 ヴェラの声がよく響く。

 これは幻なのかしら、と思う暇もなく、炎の向こうに見慣れた紫の色が見えて。


「もー! これジャマっ!」


 ガキンッと音がして、地下牢の鉄格子が弾け飛ぶ。相変わらずの力任せなヴェラの暴挙に、慧芽はこんな状況にも関わらず呆気にとられた。その上、ヴェラは鉄格子を熱していた炎の中を気にも止めずに突き進んでくる。


「けーめー! けーめー、ダイジョーブ!?」

「なぜ、姫様がここに」

「けーめーを助けにきたの! こくうがばてんをつかまえてる! けーめーを助けるのは、ヴェラがしにきた!」


 くらくらする頭で、慧芽はヴェラの金の瞳を見つめる。


 切羽つまった様子のヴェラを見るのは初めてだ。彼女の瞳は興奮すると月よりも深い、琥珀を溶かした黄金の蜜のような色になるらしい。新しい発見を前に、筆を執ることができないのが惜しく思う。


 慧芽はとりとめもないことを考えながらも、今しがた聞こえたヴェラの言葉を反芻した。


「克宇様が、馬典様を……?」

「そう! でも、けーめー、助けなきゃでしょ? だからヴェラがきたの!」


 誉めて、と言わんばかりに笑顔になるヴェラに、慧芽はようやくどういう経緯でヴェラがこの場所に来たのかを知った。


 本来ならば、主人であるヴェラが、慧芽のために火の海をくぐり抜けてくる道理なんてない。それなのにヴェラ自身が助けに来てくれた。


 その事実が、慧芽の胸をじんわりと温めていく。

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