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第44話 竜の見る景色

 ヴェラの手を借りて、慧芽は立ち上がった。馬典がいったいどんな薬を使ったのか分からないけれど、いまだ慧芽の身体は感覚が鈍く、重い。


「姫様、申し訳ございません。こんなところにまで、迎えに来ていただくことになるなんて。お仕えする者としてありえない失態です」

「そんなの関係ないよ! ヴェラがけーめー助けたかったの! 早くここをでよう? ヒトは火によわいんでしょ?」


 ヴェラが慧芽のことを気づかって、地下牢からの脱出をうながす。人が何に弱いか、そして人を思いやってこうして助けに来てくれる優しい竜の姫君に、慧芽は微笑む。


「……本当は淑女であれば、克宇様が戻ってくるのを待つのが、正しい選択だったんですよ」

「ヤダよ! それでけーめーが死んじゃったら、ヴェラ泣く! 泣いちゃうんだからね!」


 ささやくようにつぶやいた慧芽の言葉に、ヴェラが悲鳴をあげるように叫んだ。そう、ヴェラは慧芽が死んだら泣いてくれるらしい。


 嬉しかった。

 たったひと月の付き合いだ。叱るばかりだったはずなのに、こうして自分を慕ってくれる、竜の姫君。自分のことより、姫様自身のことを案じてください、という言葉は出なかった。


 熱気がひどく、呼吸をするたび、肺が焼けそうになる。細く呼吸を繰り返すものの、慧芽の身体にはひどく堪えて、ヴェラの不安を取り除けてやれないのが、ひどくもどかしかった。


 せっかく助けに来てくれたのに、このままではヴェラも慧芽の道連れになる。ヴェラがたとえ、そこらの男より膂力があっても、慧芽を連れてこの向こうに見える炎の波を越えるのは、無謀なことのように見えた。ヴェラと違い、慧芽は炎に焼かれても無事でいられるほどの頑丈さはない。


 どうするべきかと慧芽が思考を巡らせていると、ヴェラはぎゅっと慧芽を抱きしめた。


「はやくここから出よう! ヒトは炎の中を歩けないんだよね! ごめんね、けーめー。約束やぶっちゃうけど、でもヴェラ、ぜったい、ぜったいこっちのほうがいいと思うの!」


 いったい何を、なんて言う暇はなかった。

 ヴェラの癖の強い、ふわふわの紫の髪が、慧芽の視界を覆う。


「ダイジョーブ! けーめーはつぶさないから!」


 不穏な宣誓にまさか、と思ったのも束の間。

 轟っと旋風が巻き起こった。


 巻き起こる旋風の中心で、慧芽は目をつむる。ガラガラと、何か重いものが崩れていく音。風の中に交じる火の粉はやがて砂利にかき消されていく。


 ぐっと息を止めていると、不意に身体が何かにすくわれるようにして浮き上がった。驚いた慧芽が重い身体を叱咤して、なんとか首を持ち上げる。


 その視線が、真ん丸の黄金満月とかち合った。


 少し顔をそらせば、ずいぶんと久しぶりに見つけた、艶やかな紫闇の色をした宝石のような鱗たち。慧芽の身体を丸呑みできるほどの大きな顎には、ずらりと鋭い牙が立ち並ぶ。


 紫雲竜と呼ばれる存在が、慧芽の目前に降臨した。


「姫様、なんて大胆なことを」

『だって、けーめーを助けるなら、こうしたほうがいいかなって』


 どこからか聞こえてくるぼんやりとした声は、間違いなくヴェラのものだ。慧芽はまさか自分が竜化したヴェラの手のひらの上に乗る日が来るとは、思いもしなかった。


 それのみか。


『けーめー、あぶないから、あんまりうごかないでね?』

「分かっていますが……でも、少しだけ」


 ぎしぎしと関節が軋む体に、もう少しだけ頑張ってもらう。腕をついてなんとか身を起こすと、慧芽は風にあおられながらも、なんとかその光景を目にすることができた。


「風が、きもちいい……」


 星が近い。

 風に衣がたなびいていく。

 ほつれた髪が風に煽られ、頬をくすぐる。


 これが、ヴェラが見る、空からの景色。


 ヴェラは地下牢で竜化すると、地下牢の天井を突き上げるように、紫電の交じる旋風を起こして力強く飛び立った。その際に瓦礫に埋もれないよう、慧芽をその手に包み、一緒に空へと舞い上がったらしい。


 慧芽はまばたきも忘れ、濃紺の闇夜の中、ヴェラが見てきた景色をじっとその目に焼きつける。


 小さかった。

 何もかもが小さかった。


 草木も人も、家すらも。

 空から見下ろす景色は、何もかもが小さくて。


 こんなに小さくては、見えるものが違うのは当たり前だった。


 鈍くなっていた思考が段々と鮮明になっていく。少しだけ肌寒くもある夜風が、慧芽の意識を呼び戻してくれた。


「姫様」

『なぁに、けーめー』


 呼びかけた声は掠れていたけれど、ヴェラにはちゃんと届いたらしい。きょろりと満月の瞳が、埃と風、煤で汚れた慧芽を映す。


「姫様の見る景色は、こんなにも広くあらせられるのですね」


 こんなにも広い景色を見ていたら、行儀作法や礼節など、取るに足らないものだと思うのも無理はない。


 竜は自然の一部だ。

 人のことわりではなく、自然のことわりの中に生きるもの。それを人の枠に収めようなど、烏滸がましい。


 慧芽が陶然と空からの景色を眺めていると、ヴェラはその立派な翼を力強く羽ばたかせ、咆哮をあげた。


 ビリビリと鼓膜が破れんばかりの大音量。

 耳を塞いでも頭を揺さぶられる咆哮に、慧芽が何事かと思っていると。


『けーめーに、ヴェラのトクベツ、見せてあげる!』


 ヴェラはそう言うと、夜空に溶けていた紫闇の鱗が輝き出した。

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