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第46話 贖うべきは

 ことの重大性を理解していないらしいヴェラに、さすがの馬典もぽかんと間抜けな顔をさらした。だが、軒炎はヴェラの同意に満足そうに頷いている。


「ではヴェラ。またしばらく私と会えない日々が続くな。頑張れるか?」

「えっ、ダンナサマに会えないのっ?」

「そうだ。ヴェラが、そうだなぁ……品位の数え方は習ったか? 正三品になるまでは、こうして会いに来ることはできない。それがそなたへの罰だ」

「ヴェラのばつ……」


 ようやくヴェラも意味を理解したらしい。

 満月の瞳をさらに真ん丸にして、わなわなと唇を震わせ……きゅっと引き締めた。


「いいよ。がんばるの。ヴェラ、がんばってダンナサマに会いにいく!」


 すっくと立ち上がったヴェラは、たった一枚の衣の裾をバタバタと跳ね上げながら、ひざまずく慧芽のところへと走った。


「けーめー!」

「姫様」

「けーめー、ヴェラをちゃんとオキサキサマにしてね。がんばるから。ヴェラ、ダンナサマといっしょにいたいの!」


 ぎゅうぎゅうとヴェラが慧芽に抱きついた。

 慧芽がその勢いに耐えかねてひっくり返りそうになるのを、克宇が背中から支えてくれる。


 慧芽は困ったように眉尻を下げた。ヴェラの背中へと伸びた腕は、躊躇うようにさまよう。


 この背を抱きしめ返しても、いいのだろうか。


 所詮、慧芽は臨時の雇だ。正式な女官ではなく、この離宮でのみ雇われた一時的な世話役と教育係。後宮の住人となるヴェラに着いていく資格は持ち合わせていない。


 そんな自分が、今、ヴェラに乞われるまま約束してもいいのだろうか。


 慧芽が返答を逡巡していると。


「ふざけるな! それのどこが罰なんだ!」


 慧芽の逡巡を吹き消すように、怒号が響く。

 場を切り裂いたのは、馬典の怒りの声だった。


 慧芽は馬典のほうへと視線を向ける。門衛がその槍で、今にも食ってかかりそうな馬典を押し留めていた。


 ぎらぎらとした憤怒のまなざしが、軒炎を、ヴェラを、慧芽を順に射抜いていく。


「罰だと言うならその竜を殺せ! 私の里を埋めて、何人が死んだと思っている! この化け物風情が……!」


 激高し、口汚く罵る馬典に、門衛までもが眉をひそめる。軒炎は顎に手をやり、見定めるように馬典を見下ろした。


「君は竜を殺すべきだと?」

「そうだとも。こんなもの生かしておいても人を殺すだけの化け物だ! そこの女官だってそれで死にかけたのを忘れたのか!?」


 軒炎が慧芽を見た。

 馬典が言っていることはおそらく、慧芽がヴェラの雷に撃たれた件だろう。慧芽は向けられた視線に神妙にうなずく。


「私が姫様の手で死にかけたのは事実です。ですが今、死にかけていた私を助けたのもまた、姫様です」


 馬典が放った炎を越え、慧芽を助けたのは間違いなくヴェラだ。人の身なら躊躇うような橙の炎の海を突き進むことができたのは、竜であるヴェラであるからこそ。


 慧芽はさまよわせていた手をヴェラの背中へとまわし、彼女を守るように抱きしめた。


「天災を罰することはできないように、人の身で過去の姫様を罰することは愚かしいことでしょう。ですが姫様は人の営みを学ばれました。罪の意識を自覚しました。二度と人を害するようなことはしないでしょう」

「それで罪が贖われるとでも思うのか!」

「贖うための一歩でしかありません。私を助けることができた力なのですから、これからきっと、数多の人を救うことでしょう」


 詭弁だとは分かっている。

 これで馬典の憎しみが収まらないことも。

 それでも慧芽は言わずにはいられなかった。

 今の人に交じろうとするヴェラのことを見てほしかった。


 けれども慧芽の言葉は、馬典の怒りの火に油を注いだだけのようで。


「化け物に魅入られた悪女が……! いいや、妃に毒蛇を食わせる気狂いか!? 火に焼くなど生温いことをしないで、直接首を落としてやればよかった!」


 馬典の耳を塞ぎたくなるような罵倒に、慧芽はヴェラを抱きしめる腕に力を込める。


(私、悪女なんかじゃない。気狂いでもない。殺されるいわれなんて、ない……)


 そう言いたいのに、慧芽の心は萎縮してしまう。

 痛かった。

 誰かに殺意を向けられるということが、憎まれるということが、胸に痛かった。


 ヴェラを抱きしめる腕に力を込めれば、ヴェラも慧芽をぎゅぅうと強く抱きしめ返してくれる。


 ヴェラを抱きしめたまま何も言えずにいた慧芽。

 その頭を、さらりと誰かがなでてくれた。


 それは、背中を支えてくれていた、もう一人の存在。


「黙ってください」


 低い声の主は、克宇だった。

 慧芽が顔を上げれば、温厚な彼が、今まで一度も見たことのない怒りの表情を浮かべていた。


「姫君を憎むのは分かります。ですが、慧芽殿を憎むのはお門違いだ」

「お前に何が分かる!」

「お前こそ、何を理解できる」


 底冷えするような克宇の声音に、慧芽の身体が震えた。見れば、噛みつきにかかった馬典の表情も青褪めている。平気そうにしているのはヴェラと軒炎くらいなもので、馬典を捕らえている門衛すら、若干青褪めている。


 馬典の怒気などが可愛いく思えるほどの殺気が、克宇から放たれ、場を制圧していた。

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