ことの重大性を理解していないらしいヴェラに、さすがの馬典もぽかんと間抜けな顔をさらした。だが、軒炎はヴェラの同意に満足そうに頷いている。
「ではヴェラ。またしばらく私と会えない日々が続くな。頑張れるか?」
「えっ、ダンナサマに会えないのっ?」
「そうだ。ヴェラが、そうだなぁ……品位の数え方は習ったか? 正三品になるまでは、こうして会いに来ることはできない。それがそなたへの罰だ」
「ヴェラのばつ……」
ようやくヴェラも意味を理解したらしい。
満月の瞳をさらに真ん丸にして、わなわなと唇を震わせ……きゅっと引き締めた。
「いいよ。がんばるの。ヴェラ、がんばってダンナサマに会いにいく!」
すっくと立ち上がったヴェラは、たった一枚の衣の裾をバタバタと跳ね上げながら、ひざまずく慧芽のところへと走った。
「けーめー!」
「姫様」
「けーめー、ヴェラをちゃんとオキサキサマにしてね。がんばるから。ヴェラ、ダンナサマといっしょにいたいの!」
ぎゅうぎゅうとヴェラが慧芽に抱きついた。
慧芽がその勢いに耐えかねてひっくり返りそうになるのを、克宇が背中から支えてくれる。
慧芽は困ったように眉尻を下げた。ヴェラの背中へと伸びた腕は、躊躇うようにさまよう。
この背を抱きしめ返しても、いいのだろうか。
所詮、慧芽は臨時の雇だ。正式な女官ではなく、この離宮でのみ雇われた一時的な世話役と教育係。後宮の住人となるヴェラに着いていく資格は持ち合わせていない。
そんな自分が、今、ヴェラに乞われるまま約束してもいいのだろうか。
慧芽が返答を逡巡していると。
「ふざけるな! それのどこが罰なんだ!」
慧芽の逡巡を吹き消すように、怒号が響く。
場を切り裂いたのは、馬典の怒りの声だった。
慧芽は馬典のほうへと視線を向ける。門衛がその槍で、今にも食ってかかりそうな馬典を押し留めていた。
ぎらぎらとした憤怒のまなざしが、軒炎を、ヴェラを、慧芽を順に射抜いていく。
「罰だと言うならその竜を殺せ! 私の里を埋めて、何人が死んだと思っている! この化け物風情が……!」
激高し、口汚く罵る馬典に、門衛までもが眉をひそめる。軒炎は顎に手をやり、見定めるように馬典を見下ろした。
「君は竜を殺すべきだと?」
「そうだとも。こんなもの生かしておいても人を殺すだけの化け物だ! そこの女官だってそれで死にかけたのを忘れたのか!?」
軒炎が慧芽を見た。
馬典が言っていることはおそらく、慧芽がヴェラの雷に撃たれた件だろう。慧芽は向けられた視線に神妙にうなずく。
「私が姫様の手で死にかけたのは事実です。ですが今、死にかけていた私を助けたのもまた、姫様です」
馬典が放った炎を越え、慧芽を助けたのは間違いなくヴェラだ。人の身なら躊躇うような橙の炎の海を突き進むことができたのは、竜であるヴェラであるからこそ。
慧芽はさまよわせていた手をヴェラの背中へとまわし、彼女を守るように抱きしめた。
「天災を罰することはできないように、人の身で過去の姫様を罰することは愚かしいことでしょう。ですが姫様は人の営みを学ばれました。罪の意識を自覚しました。二度と人を害するようなことはしないでしょう」
「それで罪が贖われるとでも思うのか!」
「贖うための一歩でしかありません。私を助けることができた力なのですから、これからきっと、数多の人を救うことでしょう」
詭弁だとは分かっている。
これで馬典の憎しみが収まらないことも。
それでも慧芽は言わずにはいられなかった。
今の人に交じろうとするヴェラのことを見てほしかった。
けれども慧芽の言葉は、馬典の怒りの火に油を注いだだけのようで。
「化け物に魅入られた悪女が……! いいや、妃に毒蛇を食わせる気狂いか!? 火に焼くなど生温いことをしないで、直接首を落としてやればよかった!」
馬典の耳を塞ぎたくなるような罵倒に、慧芽はヴェラを抱きしめる腕に力を込める。
(私、悪女なんかじゃない。気狂いでもない。殺されるいわれなんて、ない……)
そう言いたいのに、慧芽の心は萎縮してしまう。
痛かった。
誰かに殺意を向けられるということが、憎まれるということが、胸に痛かった。
ヴェラを抱きしめる腕に力を込めれば、ヴェラも慧芽をぎゅぅうと強く抱きしめ返してくれる。
ヴェラを抱きしめたまま何も言えずにいた慧芽。
その頭を、さらりと誰かがなでてくれた。
それは、背中を支えてくれていた、もう一人の存在。
「黙ってください」
低い声の主は、克宇だった。
慧芽が顔を上げれば、温厚な彼が、今まで一度も見たことのない怒りの表情を浮かべていた。
「姫君を憎むのは分かります。ですが、慧芽殿を憎むのはお門違いだ」
「お前に何が分かる!」
「お前こそ、何を理解できる」
底冷えするような克宇の声音に、慧芽の身体が震えた。見れば、噛みつきにかかった馬典の表情も青褪めている。平気そうにしているのはヴェラと軒炎くらいなもので、馬典を捕らえている門衛すら、若干青褪めている。
馬典の怒気などが可愛いく思えるほどの殺気が、克宇から放たれ、場を制圧していた。