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第47話 才媛の矜持

 克宇は慧芽の背を支えていた手を離すと、ゆっくりと立ち上がる。


「竜に怖じけるのは仕方ない。姫君の超常の力は恐ろしいものです。ですが、その力をその身に受けて、なお立ち上がれる武人がどれほどいると思う。お前は屈しただろう。屈したお前が、何を理解すると言うんだ」

「私は屈してなど……!」

「屈したのです。殺したいのであれば首を切ればいい。先ほど、慧芽殿に言い放ったように」


 克宇が腰から剣を抜き放つ。

 馬典の目の前の地にその剣を突き刺した。


「そんなにも殺したいのであれば、いくらでも寝首をかけたはずです。そうしないで毒殺などを選んだのは、竜の存在に屈したからでは?」

「ち、違う! 何を馬鹿なことを……っ」

「馬鹿なのは貴方です。貴方はその目で何を見ていたのですか。地下牢で、慧芽殿が姫君と誓いあった瞬間を見ていなかったとは言わせません。竜の力で殺されかけても、慧芽殿は逃げださなかった。それと同じだけの強さが、貴方にもあると?」


 克宇の淡々とした弁論に、馬典の勢いが段々と削がれていく。そしてとうとう、馬典はうなだれ、何も言わなくなった。


 静寂が訪れる。

 克宇はふぅ、と一つ息をついて殺気とともに剣をおさめた。いつものようにちょっとだけ気のゆるんだ表情になり、慧芽を振り返る。


「慧芽殿」

「……はい」

「俺は、慧芽殿が頑張っていること、知ってますから」


 克宇がそう言って、微笑んでくれた。

 いつもの、自分より年上なのにちょっと頼りなくて、慧芽にも叱られてばかりの、優しい青年が帰ってくる。


 その瞬間、慧芽の中で何かが決壊した。


「……けーめー?」

「あ……あれ、どうして……」


 ぽろぽろと。

 大粒の涙が、慧芽の双眸からこぼれだした。


 ぬぐっても、ぬぐっても、ぬぐいきれない。

 戸惑いながら頬をこする慧芽に、克宇がそっと歩み寄ってひざまずく。


「泣いたっていいんですよ。怖かったでしょう。守れなくて、すみませんでした」

「っ、いえ、そんなこと……!」


 分かっていた。

 覚悟していた。


 あの地下牢でヴェラを導くと誓った時、竜と人の間にある溝をちゃんと理解していたのは慧芽だ。ヴェラに関わる以上、ふとした拍子に、また死が近くなることだって覚悟していた。


 そもそもこの勅令が下った時。城の女官や数多の学者を差し置いて自分が選ばれた時に、多少の誹りや罵りだって、甘んじて受けるつもりだった。


 だから、この程度。


「そんなこと、じゃないですよ。慧芽殿だって女の子です。殺されそうになって怖くないわけじゃないでしょう。いい加減、意地っぱりなのはやめましょうよ」

「い、意地なんか、はってな……っ」

「こんなに泣いてしまわれては、説得力なんてないんですって」


 克宇がその指を伸ばして、慧芽の涙をぬぐった。

 その手のたくましさに、慧芽はひどく安心して、さらに涙があふれてくる。


「……慧芽。私からも謝罪を。こういった可能性に気づきながらも、まさかそなたの命が狙われるとまで考えていなかった、私の落ち度だ。申し訳ない」

「っ、そんな、主上も、わたくしにはもったいないお言葉でございます!」


 皇帝までもが謝罪を述べる。

 慧芽が涙を散らしながらもとっさに首を振れば、ヴェラがぎゅうっとさらに抱きついた。


「ヴェラもごめんなさい! ヴェラのせいで、けーめーがあぶなくなっちゃった……ごめんねぇ」

「姫様まで……っ」


 ぎゅうぎゅう抱きつくヴェラを、慧芽は優しく抱きとめた。


 皆、皆優しい。

 人だって、竜だって。

 こうして言葉をかわして、理解し合える。

 慧芽はきっと間違っていなかった。

 その証拠に。


「さて、慧芽。詫びも兼ねて、そなたにこれを下賜しよう」


 軒炎が近くにいた従者に目配せする。

 従者は心得たかのように歩み出ると、涙がまだ止まらないまま目をまばたいている慧芽に、小さな桐箱を差しだした。


「これは……?」

「あけてみるといい」


 軒炎にうながされ、ヴェラも気を利かせて身体を離してくれる。慧芽はおそるおそる桐箱を受け取った。緊張で涙が半分ほど落ちついたなか、克宇が手燭を借りて手もとを照らしてくれた。


 桐箱の蓋を開ける。

 丁寧に紐で封じられていた桐箱の中には、雲と竜を象った紫瑪瑙の玉珮が鎮座していた。それは慧芽が戴くには恐れ多いほどの宝物で。


「そなたを本日付けで、龍妃りゅうひ付きの女官として正式に召し上げる。これはそのしるしだ」


 軒炎からの思いがけない言葉に、とうとう涙がひっこんだ。ゆっくりと軒炎から賜ったお言葉と玉佩を見比べる。


「……龍妃、さま?」

「それはだな」


 良いことに気がついたと言わんばかりに、軒炎はたっぷりとした色を目尻に匂わせると、凄絶な笑みを浮かべた。


「龍妃とは、宮妃ヴェラへと贈る称号だ。人ではない、竜たるヴェラへ、敬意を称してのもの。そしてそなたは、その龍妃に人道を説くしるべだ。何人たりとも、その道を妨碍すること能わず。その徴がこの玉珮だ」


 慧芽は身体を震わせた。

 始まりの、あの世話役と教育係という話が懐かしい。竜の人生を導くなんてこと、自分にできるのだろうか。


 下賜された紫瑪瑙の玉佩は慧芽の手には重い。

 重い、けれど。


 ヴェラが期待に満ちた表情で慧芽を見ている。

 克宇が励ますようにうなずいている。

 そして何より。


「――梔家七才媛の名にかけて。心して頂戴つかまつります」


 才媛としての己の矜恃が、逃げ出すなと言っている。


 まっすぐと視線を上げた慧芽が凛とした声で誓えば、軒炎はゆったりと穏やかな笑みを浮かべ、満足そうにうなずいた。

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