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第48話 紫瑪瑙の玉佩

 柔らかな春の朝日が差し込む部屋のなか、紫苑の領巾がひらひらと揺れている。


 ヴェラが領巾を揺らして遊ぶその正面で、慧芽はたった今着つけたばかりの姫君の全身を眺め、満足げにうなずいた。


 上衣、帯、蔽膝、裾。衣装には少しの乱れもない。少し窮屈そうに眉をしかめているものの、ヴェラはもう服を脱ぎ散らかしたりなんてしなかった。


 慧芽はヴェラを化粧台の前に座らせると、鏡を立て、櫛を手に取る。化粧台の前には繊細な金細工がいくつも並んでいる。


「さ、姫様。髪を結いますよ。少々頭が重くなりますが、我慢してくださいね」

「はーい」


 慧芽の断りに、ヴェラがのんびりと返した。

 今日ばかりは、いつものような手を抜いた仕立ては許されない。


 あの、長かった夜から七日が過ぎた。

 勅命をくだされた慧芽がこの離宮へとやって来て、はやひと月。長いようで短かった離宮での生活も、今日で終わり。


 今日はいよいよ、ヴェラの後宮入りの日だ。




 馬典によって起こされたあの夜の顛末は、ヴェラの降格と彼の投獄という形で幕を閉じた。

 この一件は竜という存在の根深さを慧芽に知らしめ、改めて己に与えられた役目が重大な意味を持つことを胸に刻ませた。


 竜は慧芽が思っているほど、人にとって近しい存在ではない。慧芽や克宇のように、こうして親しみを持てるほうが珍しい。今後、ヴェラのもとで仕えるにあたり、このようなことは再び起きるかもしれない。竜を憎み、蔑む人は必ずいる。それを忘れてはならないと、慧芽は自分を戒めた。


 このひと月のことをつらつらと思いだしながら、慧芽は化粧台の前に座らせたヴェラのふわふわとした綿雲のような紫髪を結っていく。くしけずり、うねる髪を丁寧に束ねて、編み込み、髪紐と簪で器用にまとめれば、鏡を見ていたヴェラの表情が輝いた。


「うわぁ〜! けーめー、すごい! ヴェラの頭がヘンになった!」

「盛装です。これが人の美ですよ」

「び」

「美しいということです」


 ふぅん、とヴェラがうなずく。美的感覚はいまだ共有が難しいところがあるけれど、それでも少しずつ、ヴェラも人の感覚というものが養われている。


「ダンナサマ、キレイって言ってくれるかなぁ?」

「そうですね。お行儀よくされていたら、きっと」


 仕上げとばかりに紫水晶の簪をつけ、髪はこれで終わり。慧芽は化粧台の上から、紅と筆を手に取った。


「姫様に化粧は必要ないとは思いますが……これはおまじないのようなものです」


 花鈿をほどこし、眦を際立てさせ、唇に紅を引く。

 愛らしいヴェラの表情が、鮮やかな紅で彩られる。


「ふぉぉう……ヴェラかっこいいねぇ!」

「この紅の色がある間、姫様は龍妃様としてお務めを果たさねばなりません。昨日教えたことは、覚えていらっしゃいますか」

「だいじょーぶ! ヴェラできるんだから!」


 拳を突き上げ、元気よく応じたヴェラに、慧芽はすっと手に持っていた筆を手もとへ引いた。危うくヴェラの衣装に紅が引っかかるところで、ひやりとした。


 慧芽は苦笑しながら紅を片づける。化粧台の上の道具もすべて片づけたところで、衣装部屋の扉がコツコツと叩かれた。


「慧芽殿、そろそろお時間ですよ」


 克宇が衣装部屋の外から約束の時間を告げてくれる。慧芽は背筋を伸ばすと、化粧台の前でゆらゆら領巾を揺らしているヴェラへと声をかけた。


「姫様」

「はぁーい」

「お迎えの馬車が参りましたよ」

「はいっ!」


 ぴょこんとヴェラが飛び跳ねるように立ち上がる。

 ヴェラは重たい裾を跳ねさせながら、慧芽を追い越し扉を開けた。


「こくう、バシャどこー!」

「姫君、ちゃんとお連れしますから」


 扉の外で待機していた克宇が、柔和に微笑みながらヴェラをたしなめる。彼は慧芽と目が合うと、ちょっとだけ意外そうに目を見開いたあと、爽やかな笑みを浮かべた。


「よくお似合いですよ、慧芽殿」

「お世辞は結構です」

「本当にお似合いですって。立派な女官殿です」


 にこにこと人たらしな笑顔を浮かべて克宇がそんなことを言うものだから、慧芽は少しだけ居心地が悪くなってそっと顔をそらしてしまう。


 今日の慧芽は、後宮入りを果たすヴェラにふさわしいよう、後宮女官の衣装を着ていた。離宮で着ていた私的な衣服とは違い、城から軒炎の名で、ヴェラの衣装と一緒に送られてきたものだ。その上、女官の正装を着こなした慧芽の腰には、あの紫瑪瑙の玉佩が吊り下げられている。


「克宇様もよくお似合いですよ」

「慧芽殿に褒められると、なんだか照れますね」


 以前は褒められると怖いだのと言っていた人が、何を言うのか。


 慧芽はちょっとした意地悪を言ってやりたい気持ちにもなったけれど、そんな大人気ないことはやめておくべきだと理性が勝つ。


「きちんと似合っているからお伝えしましたのに」

「そうですか? 武官の正装なので、そのうち見慣れますよ」


 それを言えば慧芽だって、この女官服が常服になるのだからお互い様だ。


 慧芽は穏やかに笑っている克宇にあきれたように息をつく。克宇もまたヴェラの後宮入りに際し、その服装は普段のものではなく武官の正装を身に着けていた。それに何より、慧芽が驚いたのは。


「克宇様も、正式に姫様の御付きに?」

「あ、気づきましたか」


 気づくも何も、正面から見てしまえば気がつかないはずがない。


 克宇の佩いた剣の柄、そこには慧芽の持つ紫瑪瑙の玉珮とまったく同じものが吊り下げられていた。

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