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後宮編

第50話 竜の後宮入り

 花は散り、青葉が若々しく生い茂る中、後宮の中に華やかな楽の音が響き渡る。幾つもの宮殿が乱立する中、楽の音はひと際庭の広い宮殿で奏でられていた。


「主上のお渡りでございます」


 皇帝付きの女官が、戸口より声をかけてくる。

 いよいよだ、と梔慧芽は丹田へと力を込めた。


 背後、宮の女主人として佇む少女へと目配せをする。少女は夏の季節にも負けず、花が咲くかのように笑った。


「おまちしておりました! ダンナサマ!」


 開かれていく戸に、今にも飛びつきそうな少女。それでも言いつけどおりに我慢して、お澄まししてくれている。慧芽はたったそれだけのことで、日頃の行いが報われたような気がした。


 戸が開ききる。

 外からこの宮殿の本来の主が入ってくる。

 慧芽もヴェラも、頭を垂れた。


「よく来たな、ヴェラ。今日からそなたも、我が後宮の一員だ」


 柔らかく、それでいて絶対に否やを言わせはしない、力のある言葉。


 天峯国皇帝軒炎からの直々の言葉に、龍妃ヴェラは満面の笑みを浮かべた。



 ◇   ◇   ◇



 挨拶は無事終了。

 伝統的な輿入れの儀もなんとか終了。

 あとは床入りの儀を残すだけとなり、慧芽は慌ただしく宮殿の中を駆け回る。


「お湯は沸かしたから、お着替えはいつでも大丈夫。床入りの衣装も用意してくださったから問題なし。……後宮なら、もう少し手が空くと思っていたのに、この忙しさはまったく変わらないのね」


 慧芽は苦笑しながら、湯浴みの道具をひと揃え、湯殿の入口へと準備しておく。後宮なら下女も多くいるが、正八品であるヴェラ妃付きの女官は離宮にいた時と同様に慧芽だけだ。妃とは名ばかりで、品位が最底辺にいる以上、ヴェラもただの女官と同じ扱いを受ける。とはいえヴェラに女官の真似事なんてできるわけもなく。変わらない忙しさに、慧芽も目が回りそう。


 そんな中、今回の後宮入りの儀で、護衛兼伝令役を仰せつかっている関克宇が、慧芽のもとへとひょっこりと顔を出した。


「慧芽殿。姫君が湯浴みにこられますよ」

「分かりました。支度はできておりますので、いつでも案内ください」


 慧芽は湯浴みの手伝いができるよう、既に手伝い用の薄い衣だ。こんなはしたない格好で湯殿の外へ出るわけにもいかず、克宇への返事も扉越し。


 でもそれでいい。自分の仕事が滞りなく進むのであれば、このままで。


 慧芽が桶を抱えながら待ち続けること、しばらく。やがて克宇の宣言通り、姫君が湯殿へとやって来た。


「けいめいー! ヴェラ、おすまししてたよー!」


 ふわふわと風に揺れる紫の癖毛に、大きくてまん丸な満月の瞳。人ならざるものとしての色が濃く表れているヴェラは、無邪気な様子で慧芽のもとへと駆け寄ってくる。ほめて、ほめて、と尾を振る犬のような振る舞いに、慧芽は苦笑した。


「姫様、お疲れ様でした。それではお風呂で少しゆっくりいたしましょう」

「ねぇねぇ、ダンナサマといっしょじゃダメなのー?」

「駄目です」


 男女が一緒に入浴なんて言語道断だ。

 慧芽はにっこりと笑って、ヴェラの重たい衣装を脱がせていく。


 頭を重く飾り立てる金細工の簪。金銀の刺繍が華やかな上衣。堅く織られた帯に、国家を象徴する文様が刺繍された蔽膝へいしつ。鮮やかに染められた裾。


 そのどれもが、皇帝から贈られた品々だ。

 本当なら後宮入りの際、妃の身の回りのものを用意するのは生家や後見人の役割。けれどヴェラは竜だから、そんなものを用意する生家などあるわけもなく。離宮に匿われる前のヴェラの暴挙のせいで、後見人に名乗り出る者もいやしない。今は後宮入りの祝いという名目で、最低限の品々を皇帝から贈られた形だ。


 今後は宮妃として、後宮運営の予算としてヴェラにも与えられる。高位の妃であるほど予算の上限は高くなるけれど、ヴェラは最下位の妃。予算の上限だって最下位だ。


 今日は特別な日だから皇帝と一緒の時間を過ごせるけれど、明日からはまたしばらく会えない日々が続く。ヴェラが癇癪を起こして物を壊したりすれば、あてがわれたこの宮殿はどんどん廃れていくし、食事がひもじくなっていくことも考えられる。いくら衣食住が保証されるといっても、それは宮妃の予算を慧芽がやりくりしてこそだからだ。


 華やかな後宮暮らし。そんな後宮の中であっても、末端の妃の実態は庶民が思っているものほど良くはない。


 本来、宮妃の予算は自分の身の回りを整えるだけではなくて、側仕えなどの給金としても振る舞われたりするものだ。この宮妃の予算を生家への仕送りとして充てている妃もいる。側仕えのいない低位の妃などはそういう事情を抱えていることが多い。だからこそ、皇帝にずっと御目見えが叶わずに、低位で居続けてしまうのだけれど。


(身なりを整え、皇帝を饗すに足るような地盤をこの宮に築かねば、主上のお渡りは今後一切なくなってしまう)


 限られた予算の中で少しずつ贅を凝らしていき、やがては高位妃と同等の地位を得られなければ、後宮では生き残れない。名門や金のある家のご令嬢ほど、高位の妃として選出されるのはそういうからくりがあるからだ。


 だから慧芽はヴェラを磨くことに手を抜かない。

 たとえ手間で大変であっても、湯浴みや衣装替えは小まめに行う。


 お金がなくても清潔にすることくらい、この後宮では簡単にできるから。


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