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第51話 お渡り準備

 ざぷざぷ、あわあわ。

 ヴェラは水浴びも湯浴みも大好きなようで、大きな湯盥にお尻をつっこみ機嫌良さげに鼻歌を歌っている。


「あーわ、わーわ。ざーぷじゃーぷ」


 石鹸水が跳ねると、泡の膜ができる。指で輪っかを作り息を吹きかけて虹色のしゃぼん玉を作るのが、ヴェラの最近のお気に入り。慧芽は泡々と遊ぶヴェラの髪を丁寧に櫛った。


「姫様、かゆいところはありませんか」

「だいじょーぶ!」


 にこにこのヴェラに慧芽もちょっとだけ気を抜きながら、丁寧にヴェラの髪をゆすぐ。


「お湯をおかけしますね」

「どうぞー!」


 ちょろちょろと杓子で泡のないお湯をかけていく。髪から石鹸のぬめりが取れると、今度はヴェラの全身にもお湯をかけた。


「あわあわ、おしまい?」

「おしまいですよ。主上もそろそろお待ちでしょうから」

「ダンナサマ!」


 ヴェラの頭の上で、ぴょこんと泡がはじける。慧芽が綺麗なお湯をかけるのも待ちきれない様子で、盥の中でヴェラはうずうずしている。


「はい、綺麗になりました。足元にお気をつけくださいね」

「ん!」


 ヴェラは元気良く返事をして盥の中で立ち上がると、ひょいっと盥をまたぐ。それからぶるりっと身体を震わせて水滴を飛ばした。


 ぴしゃっ、と慧芽の全身が濡れる。


「あ」

「……姫様」


 まるで雨に打たれた犬が全身で身震いするかのような仕草に、ヴェラが「しまった」という顔をする。慧芽もまた「やりましたね」の青筋がこめかみに浮かぶ。


「……ごめんなさい」


 慧芽が叱るよりも先に、しゅん、とヴェラが謝った。人間の仕草じゃないことを、今のヴェラは理解している証拠だ。


「仕方ありませんね。次は気をつけましょう」


 慣れてしまった所作を直すのには時間がかかる。離宮での短い期間ではできなかったことも多い。ひとまずの目標だった後宮入りは叶ったので、また少しずつ人間らしさを学んでいけたらいいと慧芽は思っている。


 湯浴みを終えたヴェラの身体を柔らかな布で覆い、優しく水気を拭っていく。ヴェラのふわふわとした長い紫髪は水気を帯びると真っ直ぐに伸びてさらに長くなる。床に引きずらないように、慧芽は丹念に水気を拭った。


「さぁ、姫様。本日の寝衣はいかがいたしますか」


 慧芽は用意しておいた籠を二つ示す。ヴェラが無理しなくても着れる薄い生地の寝衣だ。どちらも白い寝衣だけれど、襟に施された控えめな刺繍がそれぞれ違う。片方は花で、もう片方は鳥の意匠だ。


 ヴェラがしゃがもうとしたので、慧芽は慌てて彼女の背後に周り、その髪を床にすらないように束ねて持つ。しゃがんだヴェラは「うーん」と悩んで。


「こっちにする!」


 選んだのは花の意匠だった。

 慧芽はにこりと微笑んで、ヴェラを立たせる。


「かしこまりました。では本日はこちらにいたしましょうね」


 ヴェラがにこにこしながら腕を広げた。

 最近のヴェラは寝衣くらいなら協力的に着るようになってくれている。昼間のような儀礼衣裳は窮屈そうだけれど、あれほどの重たい衣裳は慧芽だってあまり着たくはないのが本音だ。ヴェラの感性が人間の持つものに近づいているのを実感して、慧芽は少しだけ嬉しい。


「さぁ、できましたよ」

「ありがとー。ダンナサマのところ、行っていい?」

「もちろんですとも」


 ヴェラの表情が、ぱぁっと明るくなる。

 にこにこ笑顔で湯浴み場を出て行ったヴェラに、慧芽は苦笑しつつ、湯浴み場の外にいる克宇へ向けて戸を四回叩いた。


「後片付けをしてから向かいます」

「了解です。慧芽殿も風邪を引かないように着替えてきてくださいね」


 戸の向こう側から克宇の返事があった。それから歩いて去って行く気配。慧芽はなんだか胸の奥がくすぐったくて、ささっと立ち上がる。克宇に心配されるのが小恥ずかしいというか、なんというか。最近よくある気恥ずかしさから逃れるように、慧芽は片付けをすすめていく。


 今日という一日はまだ終わらない。

 後宮入りの儀はまだこれからが本番だ。

 床入りの儀。これを成功させてこそ、真の宮妃と呼べるのだけれど。


(姫様、大丈夫かしら)


 ヴェラにはまだ、人間の繁殖の仕方を教えていない。事前に皇帝からも、そういう行為は一切しないとお達しがあったので、慧芽もあえて伝えるようなことはしなかったけれど。


(ここは後宮だもの。変な噂が立たないと良いけれど)


 床入りの儀で何をしたかは重要だと聞く。慧芽の知り合いが後宮に勤めているけれど、顔を合わせるたびに、後宮の華やかで泥々とした部分をよく話してくれる。彼女は皇帝付きの女官だから、今後会う機会も増えると思う。


「……そういえば、まだここに来てから一度も会っていないわね」


 慧芽としては、会いたいか、会いたくないかでいえば、会いたくないほうなので、良いけれど。


 嵐の前の静けさのようなものを感じて、慧芽はふるりと身体を震わせた。

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