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第52話 二度目の勅命

 皇帝と妃が寝室にいる間、閨番以外は立ち入りを許されない。皇帝付きの閨番に引き継ぎだけ済ませ、本日の慧芽はお務め終了……の、予定だった。


「慧芽殿、中で主上がお待ちです」

「は……?」


 思わず間抜けな声を出してしまった慧芽は悪くないと思う。男女の閨番が寝室の前で待機しているけれど、ここで引き継ぎをして慧芽は自分の部屋に戻るつもりだったのに。


「克宇殿はすでにいらっしゃってますよ」

「待ってください。今夜は一応、床入りの儀の体裁があるのでは」

「大丈夫です。我ら閨番は使命を全うします」


 会話がちぐはぐだ。閨番の使命を全うするのなら、他者の入室は拒否するべきでは?


 慧芽がどうするべきかと迷っていると、克宇が寝室の内側からひょっこりと顔を出した。


「慧芽殿。どうされましたか」

「いや、あの……」


 どうしたのかを聞きたいのは慧芽のほうだ。たとえ閨事がなくても、ヴェラにとって番いである皇帝軒炎との二人きりの時間は大切なもののはず。空気を読んで遠慮するべきだと思うのに、なぜ当然のように克宇は部屋の中にいるのか。


 慧芽がこめかみを押さえてうなだれていると、克宇が慧芽の前までやって来る。


「慧芽殿? 頭痛ですか? 部屋で休みますか?」

「いえ、結構です」


 こうなったら腹をくくりましょう、と慧芽は深呼吸する。何を言われてもこれは皇帝軒炎の命なのだから、慧芽に落ち度はまったくない。慧芽は克宇とともに寝室へと入室する。


「お待たせいたして申し訳ありません。慧芽でございます」

「けいめいー」

「待っていたぞ。顔を上げよ」


 慧芽が面を伏せていると、軒炎からお声がかかる。慧芽は顔をあげて、目の前の光景にいつかのような既視感を覚えた。


 軒炎もヴェラも寝衣を着ている。髪はどちらも下ろしていて、軒炎は寝台に腰かけていた。問題はヴェラが腰かけている場所。


 皇帝軒炎の膝の上。

 遠慮のないヴェラに、慧芽は遠い目になった。


(そうよね、離宮でもそうだったものね……)


 後宮に来てもヴェラは変わらない。べったりと軒炎にくっついてご機嫌なヴェラは、猫のように喉をごろごろさせながら、軒炎の胸に頭をこすりつけて甘えている。慧芽の胸中はちょっとお砂糖の過剰生成を始めたようで、目のやり場に少々困ってしまった。


 慧芽が不躾にならないように少しだけ視線を下げると、軒炎が早速声をかけてくれる。


「梔慧芽、後宮での暮らしはうまくいきそうか」

「万事、滞りなく」


 人員不足は最初から分かっていたことなので、筆頭女官の白梅と相談し、ヴェラの住まうこの〝竜宮〟の一部掃除や庭の手入れなどのために下女を回してもらっている。まだまだ手の回らないことはあるけれど、離宮にいた頃に比べたらだいぶ楽になった。


 慧芽がその旨をこめて返答すれば、軒炎は満足そうに頷いて。


「それは良かった。ヴェラ、そなたもここで過ごせそうか?」

「うん! ダンナサマもここにいるんでしょ? ヴェラ、うれしい!」


 ふんふんふん、と鼻を鳴らして軒炎の匂いを肺いっぱいに吸っているヴェラ。軒炎は彼女の頭を撫でて可愛がる。


「そうか。だが忘れないように。今日は特別だからこうして会えたが、明日からは違う。ヴェラはもっと頑張らないといけないぞ」

「う?」


 いまいち分かっていないヴェラに軒炎はくすりと微笑みかけると、その視線を慧芽へと向けた。


「というわけだ、慧芽。ヴェラを淑女として相応しいと証明するため、秀女選抜に出すように」


 慧芽は心中荒れ狂う。


(私を呼び出したのはそういうことだったのね)


 どうしたって表情がひきつる。

 ヴェラを秀女選抜に出す。

 当たり前だけれど、避けては通れない道だと思っていた。それがまさか、皇帝陛下直々にお声を賜るなんて。


 畢竟、これは。


(秀女選抜で結果を出せ、ということ)


 確かに秀女選抜で結果を出すことが一番手っ取り早い。今正八品という宮妃として屈辱的な最下位の地位にいるけれど、秀女選抜で結果を出せばヴェラの品位を上げることができる。


 慧芽は天秤をはかる。秀女選抜で結果を出せるか否か。今年の秀女選抜は終わっているから、来年の秀女選抜に向けて今からヴェラを教育していけば、付け焼き刃ではないそれなりの状態で挑めるはず。それなきっと大丈夫。


「かしこまりました。来年の秀女選抜にて結果を出せるよう、精いっぱい――」

「言ってなかったか? 今年の秀女選抜はまだだ。秋の中頃を予定している」

「は」


 慧芽がぴたりと止まる。

 今年の秀女選抜はまだ?


 秀女選抜は伝統的に春先に行われる。ヴェラが後宮入りを果たしたのは春の終わりだったので、例年通りなら今年の秀女選抜は終わっているはず。それが、終わっていなくて、秋にずれる? なぜ?


「春先は竜騒動であちこち騒がしかったからな。竜が後宮入りするのも前代未聞で、秀女選抜の余裕がなかった。今年はなしでやろうと思ったんだがな、梔貴妃の進言で時期をずらしてやることになった」


 梔貴妃。

 その名前を聞いた慧芽は唇を引き結んだ。

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