「ナナシ──もう良いぞ……。これが今日の賃金チンギンだ……」

　役人が無愛想ブアイソウに、セレンに小袋を渡す──。

　嫌な態度はあいかわらずだ──。

　別に──怒りは湧ワかない。

　何時も──交わす言葉は定型文テイケイブン──。

　随分ズイブン──長い付き合いだが、名前も知らない──。

　好きではない──が、実は別段ベツダン、そんなに嫌ってもいない。

　そんな存在──。

　寧ろ──セレンはこの老人に少し愛着アイチャクがあり、感謝もしている。

　と言っても、仲良くはないし、何かしてくれたという話ではない──。

　数年前に母を亡くし、隣人リンジンのナナシを亡くし、セレンは本当に寂サビしかった──。

　誰とも話す事のない生活──。

　声を出すのは決まって、母さんの好きだった歌を口ずさむ時──。

　長い間そんなでは、正直、言葉すら忘れてしまいそうになる。

　アクロと出会うまでの日々は、そんなだった──。

　そんな中──この老人とは仕事上の事務的ジムテキな会話だが、定期的テイキテキに話をした。

　他の者達が自分を避サけ、この世界に存在しない者のように扱う中、仕事とはいえ、口を聞いてくれた──。

　それが決して良い態度では無くとも、無関心ムカンシンでない態度で接してくれた──。

　そんな気がする──。

「ありがとうございました──！」

　いつもの様に、セレンは感謝の言葉を伝える。

「あぁ……」

　役人は、小さく呟ツブヤいた──。

　──よし……！　これでまた、アクロも喜ぶぞ！

　セレンは袋に、黄色い──カビた何かを詰め込む──。

　何だかとても上機嫌だ。

　嫌嫌イヤイヤな店主の態度は気にしない。

　今日は街で買い物できる数少ない日だ。

　掟オキテで許された行動で、ちゃんと危険な汚れ仕事をして、役人の許可も貰っている。

　商人は誰も、セレンと口を聞かない──。

　指差しだけで成立する、不思議な買い物だ──。

　働いた日だけは、街の何処ドコでも買い物が出来る。

　とはいえ、最近はアクロが必要とする物はもう揃ソロっているし、少しでも早く──たくさんお金を貯めたい。

　大抵タイテイの物は自給自足ジキュウジソクで間に合っている。

　今日は早く帰ろうと思っていたので、ひとつだけ──。

　そう──買ったのは大好物のチーズだ！

　以前はもう少したくさん買っていたが、今は我慢──。

　これで特別な時、一回分だ──。

　──それにしても何だろう……？　この雰囲気……。

　今日はなんだかヒソヒソ──内容は分からないが街のあちこちで噂話ウワサバナシしている。

　少し、街全体が浮足立ウキアシダっている様子──。

　──そろそろ帰ろう……。

　そう思った時──門のそばで検問ケンモンを受け停まっている、見慣ミナれぬ馬車とすれ違う──。

　直後──！

　セレンは家ウチへと駆けだした──！

　──あれは……ヒトじゃないのか？　アクロと同じ姿をしていた……。猫人国ネコノヒトノクニで──ヒト……？　今まで、アクロにしか出会った事がなかったのに……。

　セレンの脳裏ノウリに、最悪な展開が過ヨぎった──。

　鋭スルドい両足の爪が泥土デイドを掻カき揚アげ、その靭シナやかな脚のバネは、黒い影を前へ前へと突き出すように跳ハねる！

　そのスピードは自身の影を引き剥ハがす勢イキオい──！

　夕日が沈シズむには、まだ少し時間がある──。

　自宅から、焚き火の煙が上がっているのが見え──。

　自慢の先鋭センエイな二つの三角が動く──。

　アクロの悲痛ヒツウな叫サケび声が聞こえた──！

　セレンの全身の毛がゾワゾワと逆立ち──！

　その尾オは剣ツルギのように鋭スルドく伸びた──！

「ねぇ……やめて！　離してよ……痛い！　イヤッ、イヤだってば──！」

　セレンが疾走シッソウした勢イキオいそのままに自宅の庭に飛び込むと、一人の屈強クッキョウな男が、アクロの腕を掴ツカんで引っ張っている。

「悪いが泣き喚ワメいても無駄ムダだ……！　諦アキラめろ……！　怪我ケガをさせる気は無い……」

　その後ろ姿は、セレンの二回りは大きく、筋骨隆々キンコツリュウリュウな背中をしていた。

　落ちついた──とても低い声で話す男──。

「やめろ──！　お前──その手を離せ──！！」

　セレンが叫ぶと、男が振り返る──。

　男と顔を見合わせ──セレンは戦慄センリツした──。

　──顔の周りに鬣タテガミ……！　コイツ……獅子人シシノヒトだ──！

　セレンは全身に力を込め、身構ミガマえた──。

　獅子人シシノヒト──猫人国ネコノヒトノクニでは、他国と争いが起きたときに戦う軍人、罪人ザイニンを取り締まる役人、そういった力を必要とする職に、獅子人シシノヒトという猫人の中でも特別、身体能力シンタイノウリョクに秀ヒイでた屈強クッキョウな者達が就く。

　だが、より大金を稼カセごうとする者や、そこで問題を起こした者、何らかの理由で職を失った者などは、賞金稼ショウキンカセぎや用心棒ヨウジンボウといった、無法者ムホウモノになる──。

　──はじめて見た……凄スゴい迫力だ……！

　セレンは大きくつばを飲み込む──。

「ここは獅子人シシノヒトが来るような場所じゃない……！」

　セレンの額ヒタイに冷たい汗が流れる──。

「──あんた──！　アクロに何してる──！？　その手を離せ──！　ここから立ち去れ──！！」

　セレンは牙キバを剥厶き、強い口調クチョウで威嚇イカクした。

　だが、全身がブルブルと震フルえている。

「お前……ここに住む……ナナシか……？」

　男は鋭スルドい目つきで、静かに尋タズねる。

「そうだ──。ナナシは今、僕、一人だけだ──」

　セレンは決して目を逸ソらさない。

「このクロノヒトの女と、どういう関係だ……？」

　セレンは少し、答えに迷う。

「ここで……一緒に生活してる……」

　男は鬣タテガミを指先で弄イジりながら質問する。

「ナナシ……この森から外に出た事はあるか……？」

　セレンは視線をずらし、男の手元を確認した。

　アクロの腕は青黒アオグロく痣アザになっており、セレンは再び男を睨ニラみつけて答える──。

「時々──仕事で近くの町には行くが、僕はナナシだ──。それ以外はここで暮してる──」

　男はセレンの答えに納得ナットクした様子で、事情を説明し始めた。

「そうか──知らないなら教えよう──。実はな……西の大陸から来たという奴隷商人達が、東の大陸の国々で、この女の特徴と人相書ニンソウガキを配って回っていてな……。なんでも、奴隷商人から逃げたこの女を捕まえた者に、大金を支払うと言っている何処ドコかのお貴族様がいるって話だ……。奴隷商人の元へ連れていけば、その半分が分前ワケマエとして手に入る──」

　淡々と話す男には一切イッサイ、隙スキがない──。

　──なので……お前達には悪いが、この女は連れて行く……。だが、まさかこんな人気ヒトケのない森の奥、それも、ナナシのスラムで暮らしていたとはな……。大陸の何処にいるのか全く分からなかった……。話を聞いたのも、もうかなり前の話だったしな……。

　セレンは動けずに固まっている──。

　──まさか、身近ミヂカに潜ヒソんでいるとは思ってもいなかった……。もし、猫人国ネコノヒトノクニにいるとしたら、誰も近づこうとしない、こんな場所にでもいたりするのか……？　と思い、何気ナニゲなく足を伸ばしてみたら──呑気ノンキに一人で食事の準備をしている……。俺は運が良かった──。この二人にはなんの恨ウラみもないが……。

「──悪いが、この女は渡せない……」