夜の向島。川沿いには人の影がまばらに見える。川にはいくつもの屋形船。初夏の季節ということもあり、どの船も障子をあけ、季節の変わり目の涼しい風を満喫しているようであった。
その屋形船の障子を少し開けて、眼下の河の流れを見つめる少女。船は穏やかな流れにその身を任せ、ゆっくりとたゆたっている。水面に広がるいくつもの輪の広がりの行先に未練を残しつつ、少女は障子をそっと閉じる。
「お久しぶりでありますな。水戸に出向されていたとか。お役を退いてなお、能ある方はご多忙にあらせられる」
恭しく、敬忠をねぎらう初老の恰幅の良い人物。
「いやいや、これは単なる個人の儀。ここにいる―――瞬殿に足労頂いてその思い達した感じてあります」
右手で猪口を傾ける忠敬。正直、右においた大小のものも最近は持て余し気味である。
「月町先生の新作も頂戴いたしました。そのようなお忙しいなかでこれだけの作品をお書きになるとは......しかも新機軸でありますな。悪女と名高い楊貴妃が江戸の大身の大名の令嬢に生まれ変わり善行をなすというのはなかなか秀逸で......」
そう言いながら旬の茄子の膾をすすめる蔦屋重三郎である。江戸でその名を知らぬ者のない反骨の版元元締である。戯作者としての顔を持つ敬忠の良き理解者でもあった。
「しかし―――そうですか、瞬殿も同じく”令和”の御代からの―――」
敬忠の告白に驚きもせず蔦屋はそう返す。
「いえ、私もお会いするのは三回目くらいですが、こう、違いますからな。市井の女子とは。町方の娘とも武家の嬢様とも雰囲気が違いますれば。卒爾ながら、商売柄捨て目はききますゆえ。よくお二人でなんとも別世界の言葉をお使いになされていましたな。”びじねす”とか””えびでんす”とか」
そっと蔦屋も口に猪口を運ぶ。
「まあ、私としては月町先生......柳橋様のお側にお気を許せる方がおられるだけで安心ですな。ご養女ということで。めでたいことです」
その後話しは”びじねす”の内容にうつる。最近の戯作者「笈川月町」の本の売上、その売上の運用について。
「順風満帆といったところですな。戯作の出版にご公儀も相変わらずうるさいのですが......われわれ下々のささやかな楽しみを奪うことはできますまい。それを書いているのが親藩の、元御重役と知ったときの顔をみてみたいですな」
酒が入り、蔦屋の口がなめらかになる。普段はこうも皮肉めいたことを言わない人物であるだけにその鬱憤の強さを敬忠は感じざるを得ない。
「そういえば.....なにかの手助けになればと思いまして.....そうそう”ラーメン”づくりの。このようなものを手に入れました」
すっと二人の目の前に示される書状。二人は顔を見合わせ頷く。そっとその包を開く敬忠。
そこには朱色で文字が記されていた。
『極喰無尽 入会の儀』
という文字が―――