彼の名前は、
かつては
だが今は、この辺境の地で私塾を営み、子どもたちに希望を教えるために教師をしている。
しかし、彼の心の奥底には、深い傷と鋭い怒りが渦巻いていた。
その理由は、大切な教え子が“みこ”として処刑されることになったからだ。
その教え子が何人もの教団関係者を殺害したと教団は言っていたが、それは冤罪であることを剛平は知っていた。
だからこそ、教え子の灯里が"みこ"として教団に捕縛された事実が、剛平の世界観を根底から揺るがす。
心優しい剛平が信じてきた社会の秩序、正義、教育の意義。
それらすべてが、一瞬にして崩壊したかのような衝撃だった。
「あの子が、いったい何をしたっていうんだ……!」
不当な扱いを目の当たりにした剛平の心には、怒りと無力感が渦巻いている。
これまでも似たようなことはあったが、今回ほどの理不尽を経験したことはない。
特権階級である彼らは、いつも平民である自分たちを蔑ろにする。
教団の横暴、貴族たちの冷酷さ、社会の偏見。
これらすべてが、剛平の心に深い傷跡を残していた。
蒼霞国首都での苦い記憶が、走馬灯のように脳裏に浮かぶ。
石職人組合で働いていた頃の剛平は、建築への情熱と、若者たちを育てる教育への夢に満ちていた。
そして剛平は職人であると同時に、一人の妻の夫であり、そして子供の父親でもあった。
小さいながら家を持った剛平は、三人で幸せに暮らしていた。
だがそれらの生活は、すべて泡となって消えてしまう。
理不尽な目にあうことには慣れているつもりだった。
けれども、平民の身に起こる理不尽は際限がない。
首都から逃れ、この潮見城の地に根を下ろして教師をしている現在も、それは変わらない。
「悪とは、いったい何なのだろう……」
剛平はそう、繰り返し自問自答する。
権力を笠に着て、無垢な子どもたちを利用する教団。
無知と恐怖を武器に迫害を行う彼らこそ、真の悪なのではないだろうか。
教師として、剛平は常に子どもたちに正義と希望を教えてきた。
だからこそ、灯里が処刑されることになったあの事件は、その信念を根本から揺るがした。
「しかも灯里だけでなく、
剛平たちを襲う理不尽は、まだ続いた。
もう一人の教え子である茜までもが、教団によって"みこ"として指弾されたのだ。
かつての自分なら、おそらく傍観者のままだっただろう。
しかし、灯里との経験が、剛平の内なる勇気を目覚めさせていた。
教師として、人間として、そして一人の父親として、子どもたちを守る責任がある。
「もうあんな思いをするのはこりごりだ……今度こそ、私は教え子を救わなければならない。だが──」
問題は、どうやって茜を救うかだ。
ただの教師である剛平が、教団の手から“みこ”を救い出すことは不可能といっていい。
だが、希望はある。
「潮見城の城主──
新しく潮見城に着任した皆本守が、教団の手から灯りを助けたことは剛平も耳にしていた。
人々から恐れられる“みこ”の命すらも救うのだ、もしかしたら新たに“みこ”となった茜のことも助けてくれるかもしれない。
「しかし私では、城主にお目にかかることもできないな……」
ただの教師が、城主に会うことはできない。
いったいどうすれば──。
なにか良い案がないかと、剛平は城下町を散策する。
腕を組みながら街を歩き回っていると、とある板が目に入った。
掲示板だ。
お城からのお達しなど、ここには様々な情報が貼られている。
剛平の視界に、その掲示板に貼られた石職人募集の告示が飛び込んできた。
「これだ……!」
剛平は食い入るように、掲示板に書かれた内容を目に焼き付ける。
城主である皆本守様が、新たに石職人を募集しているのだという。
今でこそ剛平は教師をしているが、首都では石職人をしていた。
その時の腕はまだ鈍ってはいない。
そのうえ、この辺境の地である潮見の土地で、剛平ほどの技術を持っている者はそうはいないはずだ。
「もしかしたら、茜も救えるかもしれない!」
剛平は迷うことなく、石職人募集を受けることを決意する。
灯里を助けたように、その新しい城主は茜を救ってくれるかもしれないからだ。
ただ、一つだけ懸念事項がある。
新しい城主は奇行の多い若者である、という噂だ。
"みこ"となった灯里を助けたのは、ただの気まぐれだったのかもしれない。
それに灯里がその後どうなったのかは、剛平には知る術はなかった。
「それでも、希望はある」
ただの一般人では、教団には対抗できない。
だからこそ、茜を助けられるのは城主しかいない!
今度こそ、大切な教え子を守ってみせる。
そのために、剛平はさっそく行動を開始する。
潮見城の夕日が、剛平の背中を温かく包み込む。
茜を守る。
灯里のような不当な扱いをさせない。
新たな挑戦への第一歩を、剛平は揺るぎない決意を持って踏み出そうとしていた。