家老である
二人の間には、とある書類が広げられている。
潮見城の財務状況を如実に物語っている、重要な書類だ。
この潮見城の城主である
書類を読み終わったのだと悟った伝助は、小さく深呼吸をしてから口を開ける。
「若、状況は深刻でございまする」
目の前の帳簿には、目が痛くなるような数字が羅列されていた。
伝助は、いつもながらの真面目な口調で報告を続ける。
「現在、石垣プロジェクトによる職人や雑工の雇用費は急激に増加しており、資金はひっぱくしております」
職人や雑工の雇用費は増加の一途をたどり、資金は限界に近づいていた。
潮見城の経済は主に鉱石と真珠の貿易に依存しているものの、その貿易権は隣の
現状のままでは、石垣の建設はおろか、城下町の発展さえ望めない。
「若、なにか手を打たなければ、石垣を完成することすらできなくなりますぞ!」
「……伝助が言いたいことは理解した。このままだと、城下町の発展すらままならないということもな」
伝助の主である皆本守は、良い意味で変わった。
以前までの皆本守であれば、こんな書類は伝助に丸投げだったはず。
だが首都から追放され、潮見城の城主となりとなったことで、少しは心情の変化があったのだろう。
伝助の主である皆本守は、今では立派な城主の目つきになっている。
「若、いかがいたしましょうか?」
「……打開策が必要だな。しかも、方法は単純明快──資金を投入するしかない」
「その資金というのは、もしかして?」
「ああ、俺たちの──自らの資金を使うしか道はない。だが、それも一時しのぎになるだろう」
皆本守は立ち上がると、考えるように部屋を歩き始める。
床を踏みしめるたびに、木目が軋む音が響いた。
「なあ伝助、この潮見城に根付いている経済的な問題は、なんだと思う?」
「それはやはり──潮見城よりも風間城のほうが、立場が上だということでしょうか」
「その通りだ。潮見城の交易は風間城の商人たちに依存しており、彼らの支配下で行われている。それこそが潮見城に根付く、経済的な問題の一つだ」
伝助もそのことは痛いほどよく理解している。
しかし言葉ではなんとでも言えるが、実際に行うのは難しい。
「若、風間城の商人たちとの既存の取引構造は、何十年も続いてきたものです。簡単に変えられるものではありませんぞ」
「簡単ではないからこそ、やり遂げる価値がある」
皆本守のその声には、揺るぎない自信で満ち溢れていた。
最近、こういうことが多くなった。
伝助には思いつかないような考えで、皆本守は問題を解決していった。
「まずは風間城から経済基盤を奪い返す。そのために潮見城は今後、鉱石と真珠
の貿易を主導する体制を構築する」
「具体的には、どうするのですか?」
「これまで潮見城は風間城に鉱石などを渡すかわりに、穀物などの食料をもらっていた。だがそれらは対等な取引ではない。無駄が多すぎるんだ」
皆本守は一枚の書類を手に取り、それを伝助にポイッと向かって投げ捨てる。
「だからこれらの従来の物々交換を廃止し、貨幣決済に移行することで、取引における無駄な損失を防ぐ。そうしてコストを最小限に抑えながら、長期的な発展を目指すんだ!」
「貨幣決済で、ございますか!?」
伝助は、驚きを隠せなかった。
これまで皆本守は奇行の多い若君と思っていたが、いまの発言はただの若君が思いつく内容ではない。
「ですが若、それでは風間城の貴族たちが反発いたします。彼らが持つ、潮見城に対す貿易独占権を用意に手放すとは思えませぬ」
「それには考えがある。実は鉱石と
「市崎町にでございますか!?」
「情報によると、市崎町は潮見城の鉱石と真珠を欲しがっているらしい。これまで他の町を通してでしか手に入らなかった潮見城の鉱石と真珠が直接手に入るのであれば、市崎町は俺たちの要求を飲むはずだ」
たしかに伝助も、その情報は耳にしたことはあった。
しかし、そこから市崎町と直接商売をしようという発想には至らなかった。
「市崎町との貿易が始まれば、風間城の言いなりになる必要が無くなる。いくら風間城の貴族が反発しようとも、こちらも強気に対応できるだろう」
「まさか、そのような手があるとは……」
まるで目から鱗が落ちるような感覚だった。
伝助どころか、これまでの潮見城の城主の誰も思いつかなかったアイデアで、皆本守は潮見城を発展させようとしている。
「近いうちに、風間城と交渉の場を設ける時がくるだろう。やつらはこれまで通り俺たちをコントロールするつもりでいるだろうが、そこで風間城に対して鉱石を相場の半額で買い取らせるよう提案するつもりだ」
「半額でございますか!? 風間城側がそれを許諾するとは思えませんが……」
「早とちりするなよ、伝助。それはあくまで交渉の場を丸く収めるための方便だ。狙いは別にある」
「別でございますか?」
「半額の話は、あくまで風間城への牽制だ。潮見城が風間城の支配下にあると思えば、たとえ半額だとしても風間城の貴族は納得するだろう」
皆本守は、伝助にこう続ける。
「風間城の貴族たちにとって重要なのは、潮見城の自立だ。今の投資が将来的な発展につながるのであれば、十分に価値のあるものになるだろう。奴らにとっても、美味しい話だからな」
そうやって風間城と交渉を続けている裏で、市崎町との取引を成立させるつもりらしい。
やはり皆本守は、この短い間のうちに変わった。
しかも明確な目的を持ち、それを実行するための緻密な計画を立てている。
最初、伝助は主の急激な変化に戸惑った。
それこそ悪霊に取り憑かれたのではないか。
あるいは"みこ"に操られているのではないかと思い、密かに教団の封印札を用いて皆本守を試したことさえある。
しかし結果として、何も起こらなかった。
皆本守はただ、成長していただけだったのだ。
──若も、やっと自覚してくださったのだな。
伝助の目に、理解と期待が芽生え始めていた。
潮見城のような辺境の小さな城で発展を目指すこと自体、常識的に考えれば到底無謀だ。
しかし、皆本守の言動には確固たる自信と裏付けがある。
単なる理想論ではなく、明確な戦略が見え隠れしている。
現在進めている石垣の大規模な修築は、その象徴ともいえよう。
皆本守は単に現状を維持するのではなく、この土地を長期的に守るつもりでいる。
伝助は帳簿を前に、考え込んでいた。
心の中では、疑念と期待が入り混じっている。
「若のご提案、素晴らしいものだと存じまする。ですがこの計画には、莫大なリスクが伴います」
「リスクを恐れていては、何も変わらない」
皆本守は窓の外を見つめながら、静かに語りかけた。
「風間城の貿易独占を打ち破り、潮見城の未来を切り開く。そのためには、時に常識を覆す大胆な決断が必要なんだ」
伝助の胸に、抑えきれない高揚感が広がっていく。
なぜなら主の目には、未知の可能性への期待が輝いていたからだ。
「若……あなたは本当に、変わられました」
「変わったんじゃない。やっと目を覚ましただけさ」
その時、伝助は気づいてしまう。
皆本守は、まだ何かを隠している、と。
彼の行動には、周囲の誰もが知り得ない「未来の計画」がある。
そう思ったのは、今の皆本守の発言だ。
目を覚ましただけと言っているが、確実に何かを見ているように感じたからだ。
その考えが頭をよぎった瞬間、伝助の胸に抑えきれない高揚感が広がってい
く。
伝助はすでに、皆本守の計画に強い興味と期待を抱き始めていた。
──若の考えの先にあるものが、知りたい。
この先、潮見城に何が起こるのかを見届けたい。
皆本守が今後いったい、なにを成し遂げるか。
家老である伝助は、皆本守の活躍を特等席で観覧できる。
──どこまでも、若に付いて行こう。
その先にあるものがなんなのかを、見定めるために。