馬から降りると、
「やはり、潮見城は田舎だな」
長谷川昌治が潮見城を訪れたのは、一年半ぶりのことになる。
前回は夏だったが、その時と比べても、何一つ変わっていないように見えた。
古びた石垣、朽ちかけた木造の建物、活気のない街並み。
風間城の繁栄と比べれば、まるで時が止まったかのような景色だった。
昌治は、風間城の六大武家『六川』の一つである、長谷川家の後継者だ。
しかし昌治は、商業を生業とする分家から本家に養子として迎えられたため、他の五大貴族からは異端視されている。
武を重んじる風間城の貴族たちから軽蔑の目で見られながらも、昌治は商才と交渉術で自らの地位を築き上げてきた。
今回の潮見城訪問も、その鋭い商売の嗅覚が原因だった。
──頭の固い風間城の武家の者たちは、まだ潮見城の本当の狙いに気が付いていない。
鉱石と真珠。
この地域の唯一の価値ある資源が、今まさに風間城の独占体制から逃れようとしている。
それを阻止するため、昌治は父を説得し、今回の交渉に臨んだのだ。
──これまでの潮見城の城主は、どれも頭の足りない阿呆ばかりだった。だというのにこの変革、いったいなにがあったんだ?
潮見城は鉱石や
だからこそ、風間城は密かに潮見城を狙っていた。
風間城と潮見城の間には広大な未開拓の土地が広がっており、もしそこを開発できれば、風間城の人口圧力を緩和し、潮見城を風間城の一部として吸収することすらも可能である。
しかし、そのためには莫大な初期投資と長い年月が必要となるため、多くの貴族たちはこの計画に対して無関心であった。
そうして今に至るのだが、搾取される側であったはずの潮見城が、ついに動き出してしまった。
──この感じ、なにかがおかしい。
昌治は城内に入ると、違和感を覚える。
これまでの潮見城とは明らかに異なる雰囲気が漂っていたからだ。
職人たちの活気、整備された道、磨かれた石垣。まるで別の城に来たかのような錯覚すら感じてしまう。
それに、街と城内を見て、わかったことがある。
「貨物置き場が空になっていた。これが意味することは──」
潮見城がすでに他の城と交渉を進め、鉱石や真珠を市場価格で売却しようとしていることを示唆している。
この事実は、思っている以上に重大だ。
これまで潮見城の鉱石と真珠の交易は、風間城の貴族たちによって完全に独占されていた。
風間城側は、これらの貴重な資源を不当に安い価格で買い取り、その代わりに穀物を提供することで大きな利益を得ていた。
しかし、もし潮見城が他の城と直接取引を始めれば、風間城の貴族たちはこの重要な利益源を失うことになる。
──これは、一杯食わされたかもしれないな。
今回の訪問に際し、昌治は父を説得し、市場価格の三割引で鉱石と真珠を買い取る提案をするつもりであった。
しかし、風間城の貴族たちはこの取引に対して興味を示さず、潮見城の産出量は取るに足らないものであり、投資する価値もないと断じていた。
しかし、昌治自身は異なる見解を持っていた。
──だから最初から、オレの言う通りにしていれば良かったんだ!
潮見城は、すでに他の城との商いを行っている可能性がある。
もしも潮見城の鉱石と真珠を適正価格で取り引きをしていた場合、どうなるか。
利益による好景気という波が潮見城を潤し、鉱石と真珠の生産量は大幅に増えるだろう。
その結果、潮見城は経済的に自立し、風間城の貴族たちはこれまでのように潮見城を支配することが難しくなるはずだ。
昌治は、潮見城が独自の交易網を築き始めた場合、風間城がこの地に対する影響力を失うことを懸念していた。
だからこそ、その前に手を打つべきだった。
だが、すでに潮見城は動いていた。
潮見城を案内された昌治は、
そして、この潮見城の城主である皆本守にお目通りを果たす。
「長谷川殿、お待ちしておりました」
威圧的でも臆病でもない、落ち着いた物腰。
その目には、鋭い知性が宿っている。
そして、驚いたのはそれではない。
昌治が案内された部屋は、質素ながらも清潔感があり、食卓には驚くほど豊かな料理が並んでいた。
新鮮な魚介類、季節の野菜、柔らかそうな肉料理。
一瞬、昌治は自分が夢の中にいるのではないかと思った。
──これはいったい、どういうことだ!?
昌治の前には、予想を大きく覆すような豪勢な料理が並べられていた。
潮見城は荒廃した土地のはずであり、一般の町民は質素な生活を送っているはず。
にもかかわらず、目の前の食卓には、まるで戦乱とは無縁のような豊かな食材が揃えられていた。
この光景は、潮見城に対する昌治の認識と大きく食い違っていた。
そんな昌治の動揺を前に、皆本守が穏やかに微笑む。
「さあ長谷川殿、ここまでの道中、お疲れ様でした。さぞお腹も空かしていることでしょう、どうぞお召し上がりください」
昌治は外交的な笑みを浮かべながら、箸を手に取る。
「この箸は……?」
「さすが長谷川殿、気が付きましたか」
木製の洗練されたその箸の形状は、通常の城下町では考えられないほど精巧だった。
この会談のために用意された、特注品の箸ということがうかがえる。
「これだけ立派な箸は、あまり見かけないですね。普段使われているものと比べると、装飾がかなり派手のように感じますが」
その瞬間、まるでこの些細な話題を待っていたかのように皆本守の目が輝いた。
待っていましたというように、皆本守は口を開く。
「実はこの箸という習慣こそが、私が民に対して導入しようとしている新しい習慣なのです」
「……ほう、民に対してですか?」
「手や葉で食事をするよりも、箸を使用する方が衛生的です。病気予防にもつながるでしょう。この箸という習慣を、今後潮見の地に広めていくつもりです」
たしかに皆本守が言っていることは正しい。
──だが、バカバカしいな。
潮見城のような貧しい土地で、そんな贅沢な習慣が根付くはずがない。
庶民たちは日々の生活で精一杯だからだ。
けれども昌治は、やんわりと外交的な笑みを浮かべる。
「面白い考えですね。しかし、庶民にとっては贅沢な習慣です。武士や貴族が行う高貴な風習を、民に真似できるでしょうか? 難しいと思いますが……」
「難しいからこそ、挑戦する価値がある」
昌治の発言に対して、皆本守は即座に返す。
その自信に満ちた瞳に、昌治は違和感を覚えた。
この若者の言葉には、単なる理想論ではない何かが宿っている。
まるで、すでに成功を確信しているかのような力強さがあった。
──だが、そう簡単に進むかな?
武士でも貴族でもない、ただの庶民である彼らが、食事の衛生という概念を意識するとは思えない。
それを克服するという未来も、まったく見えない。
──皆本守は、いったい何を考えているんだ?
だがこの疑問は、もうすぐ解消されるだろう。
昌治はなにも、ただ潮見城に食事を取りに来たのでない。
ここには、会談するために訪れている。
──この会談を通して、皆本守のことを見定めてみせる。
昌治は目の前の若い城主に対し、さっそく議題を切り出すことにした。