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第36話 黒き帆の女王

厳しい冬の名残が残る冷たい海風が、港を吹き抜ける。

ここは、蒼霞そうか国の沿岸部にある神崎港かんざきこうだ。


海で働く男たちが港で白い息を吐きながら活動するなか、ひと際大きく目立つ船が港に停泊していた。

木造船もくぞうせんにしては大きいその船の一室に、テーブルを挟んで二人の男女が顔を見合わせている。


女の名前は、皆本みなもとりん

皆本みなもとまもるの姉である彼女は、この蒼霞国国主の三女であり、現在は神崎港を支配する領主だ。


23歳である彼女は、この神崎港ではさながら女王のような絶大な支配者となっている。

周囲からは『神崎殿かんざきどの』と呼ばれ沿岸部では畏怖の対象となっている反面、その類まれなるカリスマ性により港にいる海の男たちから絶大な信頼を得ていた。


凛は、船の窓から港を見渡し、神崎港を一望する。

港には大小様々な船が停泊し、商人や水夫たちが活気に満ちて行き交っていた。


その様子を目にして満足した凛は、テーブルの反対側に座る男──家老である柳生やぎゅう真一しんいちに冷徹な声で尋ねる。


「それで柳生、『黒帆衆くろばしゅう』の件はどうなっている?」


凛は自分の倍ほどの年齢がある柳生に対して、催促するように厳しい目を向けた。

家老の柳生真一は、丁寧に巻物を広げて報告を始める。


「姫様のご指示通り、『黒帆衆くろばしゅう』の拡張計画を順調に行っております。小型船の製造はもちろんのこと、中型船だけでなく、新たに大型船を三隻ほど建造いたしました」


「予定よりも早いペースだな。もちろん、極秘裏に動いているんだろうな?」


「いくつかの商会を挟んだうえ、替え玉の商会を矢面に立たせたので、問題ございません」


「素晴らしい」


凛は満足げにうなずいた。

この計画には、決して表沙汰にはできない暗い理由がある。


「『黒帆衆くろばしゅう』の力が大きくなれば、わらわの力も増す。仕事のほうはどうだ?」


「この一か月の略奪は、一度も失敗せず、我々の正体が露見することもありませんでした」


「当然だ。『黒帆衆くろばしゅう』の存在を知る者は、口を封じられるか、我々の一員となる以外に選択肢はないのだからな」


凛の声には冷酷さと自信が混ざり合っていた。

彼女が密かに組織した自慢の『黒帆衆くろばしゅう』は、海賊──つまりは略奪船団のことであった。


「姫様のご慧眼には恐れ入ります。よもやたった十年で、『黒帆衆くろばしゅう』だけでなくこれだけの大船団を作りあげてしまわれたのですから」


凛は後継者争いが始まる五年前──すなわち、今から十年前には、『黒帆衆くろばしゅう』の構想を描き、この計画を練り始めていた。


凛は貿易船団を整備する一方で、その一部を秘密裏に海賊船として運用し、交易と略奪の両方で莫大な財を築いていた。

黒帆衆くろばしゅう』は交易船として各地を巡りながら、沖合では黒い帆を掲げて商船を襲う──その二面性が、凛の船団の特徴だった。


獲得した戦利品は再び交易に回され、その利益を新たな造船と人材育成に投じている。

それらのサイクルにより、自己増殖する海軍戦略を確立させていた。


「わらわの『黒帆衆くろばしゅう』のおかげで、金は湯水のように湧いてくる。水夫と戦士の育成も十分進み、海上では敵もいなくなった」


「姫様の船団は、すでに蒼霞そうか国になくてならないものとなっております。わずか13歳でこれらの計画を思いついた先見性だけでなく、あれからたった10年でここまでの規模に成長させた手腕、もはや姫様はただの一領主では収まりません」


凛の船団は、単なる貿易船団でもなく、単なる海賊団でもない。

貿易と軍事の両面において、国家の枠を超えて機能する独立した海上勢力へ

と成長していた。


柳生は主である凛に向かって、新たな書類を差し出す。


「それでですが、姫様……弟君の件ですが」


「四男のうつけ者──守についてだろう? あいつは潮見城に左遷されたが、あの過酷な地では実質追放と同じだ。紅雨季も近い、どこかへ逃げ出しでもしたか?」


「それが守様は風間かざま城への避難を拒否し、潮見しおみ城で紅雨季こううきを過ごす決断を下されたと報告が入っております」


「何?」


凛の眉が吊り上がった。

首都でうつけとして名高かった守が、まるで歴戦の武将のような覚悟を決めたという。


「馬鹿な奴め、まさか荒魔こうまに立ち向かうつもりか? どうせあのうつけ者のことだから、紅雨季がどういうものだか理解していないのだろう」


「……姫様、守様についての情報はそれだけではございません。潮見城に巨大な石垣を建設し、風間城との貿易を断ちったうえで市崎いちさき町と独自の関係を築こうとしているとようです」


「それは妙な話だねぇ。まるでうつけの守が、あの風間城から独立しようとしているように聞こえるのだけど?」


「そして他にも…………"みこ"を救ったとの報告も」


「へぇ、"みこ"を」


凛の口元に、微かに笑みが浮かぶ。


「まさか、あの奇行の多い弟がねぇ」


凛の記憶の中で、四番目の弟は常に奇妙な存在だった。

彼は幼少の頃から周囲を驚かせる言動が多く、時に無礼とも取れる行動で、王城内の多くの者から疎まれていた。


凛は杯に注がれた酒を一口飲み、過去を思い返す。


「あの子は、小さい頃から変な子だった。大人への反抗心が強く、常に型破りな考えを持っていたねぇ」


凛の話を、柳生は黙って聞いていた。

柳生は皆本凛に十年以上仕えており、彼女が滅多に見せない感傷的な面を知る数少ない人物の一人でもあった。


「特に父上が『後継者は実力で決める』と宣言してからは、兄弟間の緊張が高まった。長男は武勇に優れ、次男は政治的策謀に長けている。そしてわらわは──」


凛はそこで言葉を切った。

彼女自身の戦略は、海洋支配という他の兄弟の誰も考えつかない方向性だった。


蒼霞国は海に面しているものの、荒魔の影響でこれまで海軍力を重視してこなかった。

だからこそ、凛はそこに目を付けた。


「四男である守は、三年以内に領地をうまく治められなければ後継者の資格を失う。長男と次男は着々と実績を積んでいて、わらわも『黒帆衆』という切り札を持っている。でも、あの子には何もない」


凛は冷酷に笑った。

そして、憎たらしい敵を見るような目で窓の外を睨む。


「だからこそ、毒殺は成功するはずだった」


「姫様、その件は……」


皆本守は、兄弟の仲で最も弱い存在だった。

だからこそ、守を排除するための作戦は単純で問題ないと、凛は考えていた。


「柳生、なぜ守への毒殺は失敗した。毒を飲む前に、見破られたのか?」


「いいえ姫様、守様はたしかに毒をお飲みになったようです」


「わらわは言ったはずだ、『確実に効果のある毒』を使えと」


「医師は、そのように申しておりましたが……」


「しかし、守はまだ生きている」


凛は、弟である皆本守を密かに毒殺しようと、刺客を送っていた。

しかし、どういうわけか守は生き延びてしまった。


その事実が示すものは一つ、毒は期待通りに作用しなかったのだ。

すなわち、『失敗』である。


窓から差し込む光が、凛の横顔を鋭く照らす。

そして凛は怒りを露わにしながら、声を荒くする。


「失敗は最大の罪だ、わらわは常に結果を求めているからな。そして失敗をした者の処遇は、決まっている──」


その瞬間、部屋の空気が張り詰めた。

ギロリと、凛は柳生へと強い眼差しを向ける。


「医師を処刑しろ」


「かしこまりました」


凛は次期国主になるという強い野心を持っている。

だからこそ、凛のもとで働く者は、結果を出すことを絶対の義務とされていた。


しかし、その命令を果たせなかった者に待つ運命は、無慈悲なる『粛清』だ。


黒い帆の海賊を統べる海の女王──皆本凛は、失敗を許さない。

それでも海の男たちは、凛のため忠誠を尽くす。


凛が兄弟たちを蹴落とし後継者争いに勝利するまで、彼女の黒い帆は畳まれることはない。

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