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何かに呼ばれた気がして、アーダルベルトはふと顔を上げた。
宴もたけなわ、夜会は大いに盛り上がっている。当の魔王を置き去りにして。
魔国の有力な部族の長や貴族階級の魔人が贈り物と共に祝いの言葉を述べてきたが、アーダルベルトの脳裏にはずっと、小さくてふわふわした子猫の存在が占めていた。
(はやく、勇者のもとへ戻りたい)
睨みをきかせる宰相のせいで、なかなか退出できないが、ようやく招待客が散らばり始めた。
謁見の予定をすべてこなすことができたのだ。アーダルベルトは他の者に聞こえないよう、そっとため息を吐いた。どうにか、最低限でも面倒な社交を済ませられて、肩の力が抜ける。
やれやれとグラスを傾けたところで、その呼び声に気付いた。
切迫した声音で、魔王と呼ばれた。
尊称なしで、アーダルベルトのことをそんな風に呼び捨てる相手など、このアウローラ王国にはいない。──そう、異世界出身の勇者以外には。
「勇者……ミヤ、か?」
切羽詰まった響きの呼びかけに気付いたアーダルベルトは、一切の躊躇なく、その場から消えた。
闇魔法を展開し、己の影に沈むと、そのまま自身の寝所へ跳ぶ。
「陛下……!」
宰相の焦った声が聞こえたが、今はそれどころではない。
闇魔法を使った転移は、一瞬だ。影を経由した空間魔法なため、時間に縛られることはない。
勇者が魔王たる自分を呼んだ、その次の瞬間には移動を完了した。
「無事か、勇者!」
幾重にも張り巡らしておいた結界は無事だ。綻び、ひとつない。誰もここには侵入していないのは確かだ。では、勇者は何をこんなに怯えているのか。
寝室を見渡してみたが、子猫の姿は見つからない。
アーダルベルトは苛立ちを押さえながら、指を鳴らした。真っ暗だった寝室に灯りがともる。
「どこにいる、勇者?」
これ以上、怯えさせないように。ひそめた声音で子猫を呼んでみるが、姿を現さない。
(部屋にいないということは、寝台か)
天蓋から垂れ下がるカーテンを引き千切るようにして開けると、白いシーツをかぶった小山が震えていた。
シーツの下から、くぐもったような小さな声がする。みぃ。
この気配は勇者のそれだ。どうやら、無事だったらしい。
アーダルベルトはほっと安堵の息を吐いた。
「……どうした、勇者。何を怯えている? 何かあったのか」
そっと近寄って、シーツを容赦なく引き剥がす。
子猫の無事な姿を一刻でも早く確認したかったために、乱暴な行為になってしまったが、心配であったが為に気が急いてしまっていたのだ。
だが、アーダルベルトはシーツを握ったままの姿勢で凍り付いた。
半分ほど引き剥がした白いシーツの下から、そっと顔を出した彼女と視線が合う。
「……
はらり、と。アーダルベルトの手からシーツが力なく落ちていく。
(どういうことだ、これは)
シーツの下から現れたのは、ほっそりとした肢体の愛らしい少女だった。
随分と、若い。十歳ほどの年齢だろうか。まだ小さな子供だ。
白銀色の髪と真っ青な綺麗な瞳。そして髪の隙間から生えているのは、三角の獣耳。シーツの隙間から見え隠れしているのは、どう見ても獣の尻尾だ。戸惑うように揺れている。
(ここには、勇者である子猫しかいなかったはず。どんな手練れだろうと破れない結界を張っていた。結界は無事、ということは破られていない──)
混乱の極致に至ったアーダルベルトだが、その少女の大きな瞳を目にして、息を呑む。
見慣れた、青。晴れ渡った空の色をした瞳だ。自分はこの瞳の色をよく知っている。
三角の愛らしい耳も、ふさふさの美しい尻尾も知っていた。
触ったことだってあるのだ、当然だ。
何よりも、この少女は自分のことを真っすぐに見上げて「魔王」と呼んだ……。
アーダルベルトは愕然とした表情で、その少女を見下ろす。
「まさか、勇者、か……?」
「そうにゃ、よ? さっきまで子猫だった、わたし」
へにょりと眉を寄せて困惑する姿に、アーダルベルトは胸を突かれたような衝撃を覚えた。
初めて子猫を目にした時と同じくらい、激しく波打つ鼓動。
(なんだ、この気持ちは。胸が苦しい……のと同じくらい、喜びを感じている……?)
くらくらと、視界が揺れる。眩暈に似た衝動のまま、アーダルベルトは動いた。
そっと怯える少女に歩み寄り、シーツごと抱き締める。
(甘い、ミルクの香りがする)
子猫の大好物の、ハチミツ入りのホットミルクの匂いだ。
シーツ越しにでも伝わる、ささやかなぬくもりにアーダルベルトの胸の鼓動が大きく跳ねる。
こんなにドキドキしてしまったら、勇者が驚いてしまわないだろうか。
そんなバカみたいな心配を抱えながら、腕の中の少女を見下ろす。一目で惹かれた、キトンブルーの双眸に自分の顔が映し出されていることに、アーダルベルトは愉悦を覚えた。
(間違いない。勇者だ)
先刻まで真っ白な毛並みの愛らしい子猫だった彼女が、獣人へと変化した理由は分からないが、魂は同じ存在だと、アーダルベルトは確信する。魔力が同じなことにも、今になって気付いた。
「月を見ていたら、急に熱くにゃって、変わったにょ。顔も髪も変わったし、こどもの姿に、にゃってるにょ。わたし、どうしちゃったのにゃ……?」
中途半端な姿に戸惑う少女の姿に、アーダルベルトの庇護欲が大いに刺激された。
シーツを巻き付けただけの、ほっそりとした頼りない肢体。
(まるでベールをかぶった花嫁のようだ……)
甘い匂いのする、剥き出しの肩は随分と痩せ細っているようだ。肩だけではない。腕も折れそうに細いし、足なんて骨だけに見える。
子供は普通、もっと健康的にふくよかでなければならない。
もっと肉を食べさせなければ、とアーダルベルトは使命感を覚えた。
子猫の時の勇者も小さくて弱そうだと思っていたが、人の姿になれば危機感を覚えるほどに痩せている。きっと、子猫はあのふわふわの毛に隠れて、本来の体格が分からなかったのだ。
白銀色の髪をした少女は、アーダルベルトが少しでも力を込めれば、折れてしまいそうに華奢だった。
それに、小刻みに震えている。怖いのか、寒いのか。
(どちらにせよ、早くシャローンを呼ばなければ)
そう理性は訴えているのに、もう少しだけこうして抱き締めていたい、と強く思ってしまう。
(この、香りが私の心を絡め取る……)
鼻先をかすめるミルクとハチミツの匂いの他にも、甘く蠱惑的な香りが、その白いうなじから立ち昇っていた。
これまで嗅いだことのない匂いのはずなのに、ああようやく出会えた、と強く思う。
(この、腕の中の存在を守りたい。真綿に包むようにして、ぬくもりと優しさだけを教えてやりたい)
頭の中ではそう考えているのに。
どうしてだか、同じくらいに強く、少女のうなじに牙を立てたいと願ってしまう。
焦燥感にも近い己の感情に、アーダルベルトは困惑する。
腕の中の小さな少女は涙目でしがみついてきた。
「どうしよう……。怖いよ、
「……落ち着け、ミヤ。私がそばにいる」
勇者、と。いつものように呼びたくはなかった。
少女の名を紡ぐと、それは驚くほどしっくりとアーダルベルトの心に馴染んだ。
きゅ、と小さな指先がアーダルベルトのシャツを握り締める。
愛らしい三角の獣耳がぺたんと後ろに倒れており、ぴるると尻尾の先が小刻みに揺れた。
アーダルベルトの胸元に額をぐりぐりと押し付けてくる様子が子猫の時の仕草とまったく同じで、つい口元が綻んでしまった。
こんな時なのに、頼りにされて嬉しいと感じてしまうなど、どうかしている。
ひどいことを考えていると知られてしまうと、きっと彼女はひどく怒ることだろう。
(もしかして、嫌われてしまうかもしれない)
そう思い至った瞬間、アーダルベルトは恐怖を覚えた。
心臓をぎゅっと素手で掴まれたかのような、鋭い痛みに低く呻いた。嫌だ、怖い。そんなことになったら、生きていけない。
こんなに恐ろしい思いをしたのは初めてだった。かつての強敵──吸血族の始祖王と対峙した時でさえ覚えたことのない感覚だ。
勇者ミヤに嫌われたくはない、と強く思う。
ふと見下ろすと、白く滑らかなうなじが目の前にあった。心を乱す香りは、そこから立ち昇っている。見つめていると、触れたくなった。
欲望のまま首筋に唇を押し当てると、ビクリと震える姿が愛らしい。
この白いうなじに、己の牙を突き立てれば、少女は自分のものになる──アーダルベルトは唐突に気付いた。
「ああ、勇者──……いや、ミヤ。お前は私の『魂のツガイ』なのだな……?」
魂の一対を求める心のまま、怯える愛しい子猫を己のモノにしようとして。
「このバカ陛下がッ!」
低い罵り声と共に強烈な打撃が頭上に落とされて、アーダルベルトは牙を立てる前に、どうにか理性を取り戻したのだった。