■ 第七章 獣人姿になってしまったようです
わっ、と賑やかな歓声が遠く離れた魔王の寝室にまで響いてきた。
美味しい夕食を食べた後、眠りに落ちていた美夜もさすがにうるさくて、目が覚めた。
「うにゃぁ……?」
薄暗い室内だが、幸い猫の目は夜でも良く見える。
睡魔に負けそうになるトロンとした目元を、マシュマロのようなふわふわの前脚でこすった。
ふわぁ、と可愛らしい欠伸が小さな口元からこぼれ落ちる。
このまま、ふかふかの高級ベッドで再び眠りにつきたかったが、何処かでパーティでも開いているのだろう。その喧騒が気になって、眠れそうにない。
人から子猫の姿に変わってから、聴覚が優れた為か、うるさくて仕方なかった。
猫になってから鋭敏になった耳が、ピクリと反応する。
華々しくかき鳴らされる音楽。何かおめでたいことでもあったのか、轟音のような拍手の音と歓声が遠く離れたこの部屋まで響いてくる。
よく眠ることを信条としている子猫なので、人の気配があるくらいは平気で熟睡できるのだが、ここまでの騒音はさすがに無理だ。
仕方がない。起きることとしよう。
すっかり専用の寝床と化した魔王のベッドに美夜は腰を落ち着けた。
(騒がしいなぁ。そういえば、シャローンさんが今夜は生誕の宴だって張り切っていたような。あの魔王サマの誕生日なのね、今日は)
紫がかった黒髪と紫の瞳を持つ美貌の魔王、アーダルベルト。
整い過ぎた容貌は、魔王と言うよりも天使と言われた方が納得できそうなほどに神々しいのに、真逆の存在だと言うのだから驚きだ。
アーダルベルトは歴代最高の力を誇る、最凶の魔王として生まれ付いたのだとエルフの侍女長は褒め称えていたが、美夜にはよく分からない。
たしかに、とても迫力のある容姿をしているのは確かだと思う。立派な巻き角も魔王っぽい。
溢れ出る強者のオーラも何となく感じ取れるが、美夜が知っている彼──魔王アーダルベルトは子猫である美夜にとことん甘く、優しい人物なので。
たまに厨二病めいた微妙な発言はするけれど、それは魔王のお約束なのだろうから、気にしないことにしている。
(男の美学ってやつなのよね、きっと。知らないけど)
その他で美夜が知る彼は、異世界からやってきた天敵のはずの勇者もどきに、暖かくて快適な寝床と美味しいご飯を用意してくれ、全力で遊んでくれる猫好きの男。それだけで充分なのだ。
(勇者とか、魔王とか関係ない。最初はぎこちなかったけれど、段々と撫でるのが上手になってきた、不器用で優しい男のひと)
その男の誕生日が、今日。
魔王とは、魔族の王のことなのだと、侍女長から教えてもらった。
魔族とはアウローラ王国を治める一族であり、数はそれほど多くはないのだとか。魔王と同じように、ツノや牙、鋭い爪だったり、背に翼が生えていたりするらしい。魔力と膂力が凄まじく、長命の者が多いとか。
絶対数が少ない彼らは、アウローラ王国の貴族の地位にあると聞いた。
侍女長や宰相、メイドたちのようなエルフは亜人種とされ、アウローラ王国の一般国民。
獣人たちもそうだ。ドワーフや人魚族などの少数種族も王国で保護されているらしい。
ただ、今代の魔王アーダルベルトは実力主義をモットーとしており、有能な者を積極的に取り立てているのだとも、教わっている。
きちんと頑張っている者が報われる世界だったら良いのに。そう、しみじみと思う。
育ってきた環境を思い出して、モヤモヤしてくる気持ちを振り払った。
(うん、忘れよう。あんな家ともう関わらないで済むだけでも異世界転生、大歓迎よ!)
ぷるるっと首を振って気持ちを入れ替える。
そう、今考えるべきは、魔王についてだ。
(魔族って、悪魔とは違うんだよね? 悪魔だと、二股の木から生まれるって何かの本で読んだ気がするけど……)
生誕の宴で祝われているということは、普通に親から生まれたのだろう。
(魔王の誕生日……)
ふむ、と美夜は考え込んだ。
勇者召喚の儀式とやらに巻き込まれて、小さな猫の姿でこちらの世界に引きずり込まれてから、ずっと、お世話になっているのだ。
せめて、お礼代わりにプレゼントを渡したいが、あいにく今は子猫の身。
(何も持っていないんだよね、私。せめて人の姿で召喚されていたら……ああ…元の姿でもプレゼントできるような物、何も持っていなかったかー)
バイト帰りの貧乏大学生なのだ。中身の心許ないお財布とスマホ、ハンカチとティッシュくらいしか持っていなかったことを思い出して、美夜はしょんぼりする。
それに、もしも自分が人の姿のまま勇者として帝国に召喚されていたら、ここまでの待遇はされていなかった気がした。だって、子猫じゃないし。
猫好きな魔王に拾われたからこその、VIP扱いだと美夜はちゃんと理解しているのだ。
そこまで考えて、はたと気付いた。そう、魔王は猫好き。だったら──
(肉球マッサージをしてあげたら、喜んでくれるのでは?)
それはとても名案に思えた。
書類仕事に疲れた魔王は、おもむろに子猫の後頭部を嗅ぎ始めるのだ。ストレスが許容範囲を越えると、お腹に顔を埋めたがる悪癖もある。いわゆる、猫吸いというやつなのだろう。
生暖かい息が気持ち悪いので、あれは本当にやめてほしい。
なので、お腹に顔を埋めようとする魔王は問答無用で蹴り飛ばしている。あれはだめ。セクハラです。
猫吸いを拒否された魔王は渋々と──いや、むしろ嬉々として、今度は肉球に触れてくる。自慢のピンクの肉球を真顔で揉みしだく魔王。
とてもくすぐったいが、お腹を吸われるよりはマシなので我慢している。これも美味しいご飯のため。そう考えて、耐えていた。
(私、知っているもの。魔王は猫の肉球が大好き。よし、肉球マッサージをしてあげよう!)
お金もかからない、とてもお手軽なプレゼントだが、魔王を喜ばせる自信はある。
生誕の宴から魔王が帰ってきたら、さっそくマッサージをしてあげよう。
感極まった魔王が美味しい夜食をお礼にくれるかもしれない。パーティ用のご馳走をお裾分けしてくれる可能性も高い。国のトップのお祝いパーティなのだ。きっと素晴らしいご馳走がたっぷりと並んでいるに違いなかった。
(……待って。それなら、こっそり出向いてご馳走をつまみ食いする方が楽しいのでは?)
それはとても良い考えだと思えた。
小さな子猫が一匹くらい紛れ込んでも、バレないはず。
パーティ会場にいるメイドさんに頼めば、優しい彼女たちのことだ。きっと、こっそりと取り分けてくれるに決まっている。
(そうと決まれば、パーティ会場に突撃よ!)
広い寝台の上で伸びをして、ふとカーテンの隙間から夜空を見上げた。
大きくて、丸い──赤みを帯びた月が目に入る。
(桃色のお月さまだ……)
不思議な色彩に見惚れていると、ドクンと心臓が大きく震えた。
「ミャ…ッ?」
ドクドクと激しく脈打つ苦しさに、美夜は寝台に倒れ込んだ。
身体が熱い。息ができない。
(苦しい、苦しい──誰か、たすけて)
切羽詰まった状況で、美夜の脳裏を過ったのは漆黒の闇を纏う、美貌の男の姿だった。
呼んだら、すぐに駆け付けてくれる、唯一の存在。
彼ならば絶対に美夜を助けてくれると知っていたのに、四肢に力が入らない。声を張り上げたいのに、かすれたような息を繰り返すことしかできないでいた。
ぎちぎち、と体中が締め付けられるような痛みに涙が滲んでくる。目の前がチカチカと明滅していた。見慣れた景色が段々とぼやけていくのが怖い。
覚えのある痛みだ。幼い頃にインフルエンザに罹った時とよく似ている。関節が痛み、冷水に浸かっているかのような酷い寒さに体を震わせた。歯の根が嚙み合わず、カチカチと音がする。
自分はこのまま死んでしまうのでないか。そんな恐怖に、美夜は心の中で叫んだ。
(魔王───…!)