◆◇◆
どれほどの時間が経ったのか。
一時間ほどか。いや、数十秒ほどの出来事だったのかもしれない。
どちらでもいい。今はとにかく、あの苦痛でのたうった時間から解放されたことを、美夜は心の底から感謝する。
(痛くない? 動けるようになっている! 良かったぁ……)
束の間、意識を失っていたようだ。ぼんやりと目を開けて、細く長く息を吐いた。
あれは何かの発作だったのだろうか。肉体だけは健康だったので、こんなことは初めてだ。
身体が痛くないって、何とすばらしいことなのだろうか。普通に呼吸ができるということが、これほど嬉しく思えるとは。
ともあれ、ゆっくりとベッドから起き上がろうとして、美夜は違和感に戸惑った。
「にゃ……?」
何だか、いつもより身体が重い気がする。それに、少しだけ肌寒いような。
「んん?」
四肢を踏ん張って立ち上がろうとした姿勢のまま、美夜は硬直した。
目の前に見えるはずの、自分の前脚が──見慣れたフワフワのあんよが存在しない。
自慢の純白の被毛に包まれた、可愛い前脚の代わりにそこにあったのは、人間の両手だった。
(子猫の前脚じゃない。これは人の手。……ということは?)
慌てて、視線をずらすと、手だけじゃなく、足も胴体も人間のものに変わっていた。
「ふえぇ?」
美夜は呆然と己の身体を見下ろす。
異世界へ召喚されてから、ずっと小さな子猫の姿だったのに、どういうことなのだろうか。
今の彼女には、見慣れた手足がある。肌を覆っていた毛皮がなくなると、こんなに心許ないのかと不安になった。すべすべとした白い肌に長い手足にと視線を滑らせて、美夜は戸惑う。
何だか、以前の自分の肉体とは少しだけ違う気がしたのだ。
『羽柴美夜』の身体も痩せてはいたが、ここまで肉付きが悪かっただろうか。
(子猫の姿でいたから、その影響が残っているとか?)
とはいえ、人に戻れたことにはホッとした。
ぺたん、とベッドに座り込んで、美夜は己の手をじっくりと観察する。唐突に人の姿に戻った弊害か、自分の肉体に対する違和感が消えない。
きちんと動くかどうかを確かめるために、指を握り込み、次は広げる動作を繰り返してみる。ぐっぱー、ぐっぱー。うん、ちゃんと動く。
次は久しぶりに言葉を発することにした。声は出る。言葉はどうだろうか。
心の中に浮かぶ疑問文をそのまま口に出してみる。どういうことなの?
「どういうコト、にゃの……?」
噛んだ。──いや、噛んだ、のだろうか?
美夜は慌てて両手で口を覆った。めちゃくちゃ恥ずかしい。
(語尾が「にゃ」って、本当にどういうこと?)
つい先ほどまで子猫の姿だったとはいえ、まさか脳まで猫化していたということなのだろうか。
恥ずかしいと言えば、今の姿もそうだ。子猫の姿から人に変わったのだから、当然かもしれないが、今の美夜は全裸なのだ。服どころか、下着一枚、身に纏っていない状態である。
(仕方ない。だって、猫だったもん! 服なんて着ていなかったもの、仕方ないよね⁉︎)
赤みを帯びた満月を眺めていると、唐突に苦しくなり、意識を失って──目が覚めると、なぜか今度は人の姿に戻っていたのだ。全裸なのも当然である。
毛皮や服がないと、これほどに心許ないものなのか、とあらためて思い知った。
意識すると、猛烈に恥ずかしくなる。羞恥と──あと、純粋に寒さにも震えてしまう。
(服! 何はともあれ、服を探さないと!)
子猫だった時ならともかく、今は人の姿を取り戻したのだ。
宴を終えた魔王が帰ってくるまでに、どうにか身支度を整えておきたい。
(とはいえ、ここは魔王の寝室。女性用の服があるわけないのよね……)
なので、仕方ない。これは緊急避難。侍女長に叱られませんように、と心の中で祈りながら、魔王の豪奢なベッドからシーツを引き剥がした。
肌触りの良い高級品だ。美夜はシーツを身体に巻き付けて、ほっと安堵の息をつく。
動きにくいけれど、歩けないこともない。情けない恰好ではあるが、全裸よりは遥かにマシだ。
この姿なら、誰かと遭遇したとしても、そこまで恥ずかしくはないはずだった。
魔王のベッドから、そっと降りる。毛足の長い豪奢な絨毯のおかげで、裸足でも問題なく床を歩けそうだ。胸の苦しさも身体の痛みも、今は全く感じない。
(探し物をするなら、今がチャンス!)
もちろん、第一目標はまともな服である。女性物、だなんて贅沢は言わない。サイズの合う服、あと下着もあれば助かるのだが、高望みはしないでおこう。
久しぶりの二足歩行に緊張しながら、足を踏み出した。何となく、バランスが取りにくい。すっかり四つ足に慣れてしまっていたので、苦労しながら歩いていく。
左右交互に両足を動かしていると、段々と「足で歩く」ことを思い出してきた。
いつもより時間は掛かったが、どうにか目的地に到着することができた。
目的地は、魔王の寝室の続き部屋、クローゼットルームだ。クローゼットとされているが、普通に部屋だと思う。さすが魔族の王さまのクローゼットと言うべきか。何なら、美夜が住んでいたアパートの一室がすっぽり収まるほど、広くて綺麗な空間だ。
シャツだけでも五十着以上ある。どれも肌触りの良さそうな高級品だ。
シャツの隣にはウェストコートがこれまた数十着。ジャケットの種類はさらに多い。テーラードジャケット、乗馬服っぽいジャケットに古めかしいデザインのノーフォークジャケットまである。
(あ、これはアレだ。タキシードっぽい。魔王、似合いそう! これにゴージャスな毛皮のコートをはおって玉座にふんぞり返ったら、ラスボス魔王っぽい! 見てみたーい)
タキシードに似たデザインの服の他にも、燕尾服らしき物もあった。今夜のパーティではきっとこんな豪華な服で着飾っているのだろう。
黒く艶を帯びた上質のスリーピーススーツを着た魔王の姿を想像すると、美夜はうっとりとため息を吐いてしまう。そんなの、絶対に格好いいに決まっている。
紫を帯びた、艶やかな黒髪は垂らしてあるのだろうか。それとも、丁寧に編みこんであるのか、とても気になる。アメジストカラーの瞳はきっと、どんな宝石よりも輝いているに違いない。
(いいなぁ。私も見たかったな。着飾った魔王の勇姿)
バイトに勉学にと忙しかった美夜は恋愛とは無縁だったが、綺麗なものを眺めることは嫌いではない。イケメンに興味はないが、汚いものよりは綺麗なものを見る方が楽しいに決まっている。
(遠くから芸術品を鑑賞する気持ちで眺める分には、イケメンもウェルカムなのよね)
なので、現在の魔王城での生活は、美夜にとっては天国に近い。
城の主である魔王を筆頭に、お世話をしてくれているエルフのメイドさんたちは皆、とんでもない美形揃いなのだ。宰相もエルフなので、男性だが、とても麗しい。魔王とはまた少し違うタイプの美形なので、飽きることなく眺めていられる。
城勤めの者はエルフだけでなく、獣人たちもいるが、こちらはこちらで外見がいい。エルフのような中性的な美貌ではないが、獣の姿の一部を露出した獣人はワイルドで恰好がいいのだ。
眼福である。しかも、子猫姿の美夜に彼らはとても優しくしてくれた。
主である魔王が文字通り、猫可愛がりしているおかげか、皆、親切なのだ。
悪戯心を抑え切れず、テーブルから物を落としてみたり、レースのカーテンを破ってしまっても、ころりと転がり、瞳を潤ませて「にゃあ」と可愛らしく鳴けば、大抵は笑顔で許された。
ちなみに魔王アーダルベルトの前でそれをやると、「ぐふっ」と妙にくぐもった咳払いをした後、ふかふかのお腹の毛に顔を埋められて深呼吸されてしまうので、注意が必要だ。
などと、つい現実逃避をしかけてしまった。これはいけない。目的を忘れないようにしなければ。