■ 第八章 侍女長は今日も忙しい
アウローラ王国の魔王に仕える侍女長、シャローンはエルフだ。
五大エルフ族の中でも筆頭一族の血筋であり、魔力量の多さと有能さで、その名を知られている。現魔王陛下の乳母であり、魔王アーダルベルトの忠実な右腕とされる宰相は、彼女の次男だ。
ちなみに長男は一族の長を務めている。性格は正反対だが、どちらも彼女にとっては可愛い息子だ。
アーダルベルトと彼女の息子たちは幼馴染みで、似た者同士。
今でこそ、最強の魔王と凄腕の宰相などと褒めそやされて涼しい顔をしているが、幼い頃は手が付けられないほどの悪戯小僧だった。
子供の悪戯とはいえ、当の子供が強大な魔力を誇る次期魔王であれば、笑いごとでは済まされない。いくつの土地が更地になったことか、と当時を思い出したシャローンが遠い目になるほど、それはもう大変な子供時代だった。
なまじっか、悪知恵の働く己の息子が傍にいたので、被害が大きくなった面もある。
隠し事がやたらと上手な息子がアーダルベルトの悪戯の補佐をしていたのだ。すぐには露見しないよう、暗躍していたテオドールの資質を見出した前宰相の眼力は凄まじい。
おかげで、今や彼女の息子は有能な宰相として、この国を支えている。
シャローン自身もその頭脳と人柄を評価され、文官のトップとして働いてくれないか、と何度もお誘いはあったのだが、侍女長の地位を辞することはなかった。
(アーダルベルトさまのいちばん近くで、見守る存在が必要なのです)
その仕事だけは、誰にも譲れなかったのだ。
歴代の魔王の中でも随一の力を誇る、魔王アーダルベルト。
若くして、魔族の王の地位に就いた彼を侮る者は、もはやいない。
王座に就いたばかりの頃は身の程知らずの連中が簒奪を狙って襲ってきたものだが、たった一人でそれらを圧倒的な力で下してきた。
(アーダルベルトさまは誰よりも強い。でも、だからこそ心配なのです)
あまりにも強すぎて、孤高の存在となってしまえば、長い寿命を抱える身には毒としかならない。
彼の傍らで、その孤独を癒す者がいなければ、破滅の道へ進んでしまう可能性が高い。
かつて勇者と呼ばれていた賢者も、そのことを危惧していた。
乳兄弟で右腕となった我が息子、テオドールだけでは足りないのだ。
(でも、私は乳母で、侍女の一人でしかない。孤高の魂を癒し、正しい道へ誘うには力不足です。あぁ、せめてアーダルベルトさまが『魂のツガイ』と出逢えれば……)
魔族や獣人、竜族には運命の相手が存在する。
種族も性別も越えた、たった一人の特別な相手、それが魂のツガイと呼ばれる存在だ。
巡り合える可能性は限りなく低いとされているが、どうしても期待してしまう。
彼が心を許す相手は、極端に少ない。
誰も信じられなくなり、かつての破滅の魔王のように破壊願望を抱くようになることをシャローンは恐れていた。
だから、あの日。トワイライト帝国が性懲りもなく、勇者召喚の儀式を行ったと知ったアーダルベルトが直々に出向いた際に、小さな動物を連れて帰ってきた時には、とても驚いた。
薄汚れた灰色の小さな毛玉を抱えて、「これが勇者だ」と差し出された時には呆気に取られたものだが、今は運命の神に感謝をしている。
異世界から召喚された、小さくて愛らしい勇者。
猫という異世界の獣の姿をしているが、もうひとつの魂を抱えているのだという。
生まれてまだ一ヶ月という、長命のエルフや魔族からしたら、赤子同然の存在にシャローンはふたたび母性を爆発させてしまった。
「この子は私が育てます!」
あまりの愛らしさに、そう主張してしまったのだが、魔王アーダルベルトには即座に却下されてしまった。
「いや、これでも勇者だ。侍女長が危険な目に遭うやもしれぬ。勇者は魔王たる私が責任を持って見張っていよう」
「アーダルベルトさま……。立派ですわ!」
うっかり涙腺を緩めてしまったが、後から考えると、あれは単に愛らしい子猫を独り占めしたかっただけに違いない。ずるいです。羨ましすぎます。
魔王アーダルベルトはすっかり、子猫に夢中になっていた。
手ずから食事を与え、執務中にも「監視」と言い訳をしながら、膝の上でお昼寝をさせていたことをシャローンは知っている。しかも、夜になると同じベッドで添い寝しているのだ!
乳兄弟であるテオドールさえ驚くほどの、変わりようだった。
だが、シャローンにはその気持ちが痛いほどに分かる。なぜなら、召喚勇者である子猫はとんでもなく愛らしかったので。
真っ白の、ふわふわの毛並みは、どんな獣の毛皮よりも素晴らしい手触りを誇っている。
賢者曰くの「子猫の時にだけ見られる、キトンブルー」な瞳もとても美しい。澄んだ青い瞳はどんな湖よりも神秘的な煌めきを秘めていた。
ぴんと立った三角のお耳も愛らしい。ふわふわの脚には小さな爪が生えているが、これがまた無力で愛おしかった。獲物を仕留めるための武器には程遠く、たまに自分でレースのカーテンに引っ掛けてはピィピィ鳴く始末。賢者が言うところの「おバカ可愛い」とは、このことか。
アーダルベルトは小さな勇者の頼りない牙にも衝撃を受けていたが、この今代の召喚勇者はとにかく最弱で、アウローラ王国どころか、トワイライト帝国でも生き抜くのは厳しかったと思われる。
誰かの保護なくしては、一日を生き延びることさえ難しそうだった。
異世界からの召喚勇者ということで、シャローンはほんの少しだけ警戒していたのだが、近くで観察しているうちに、すっかりほだされてしまった。
この勇者は、脅威に値しない──シャローンはそう判断を下した。
彼女の大切な魔王が害される心配はなくなって、ほっと胸を撫で下ろしたものである。
やがて、この子猫はアーダルベルトの心を救ってくれる、稀有な存在になるのではないか、と期待するようになった。
前代未聞の最弱の勇者は、その能力を「可愛い」に全振りしている。
宰相のテオドールなどはそんな結論に至っていた。母であるシャローンも納得の推測だ。
だって、この子猫はとにかく可愛い。メイドたちだけでなく、近衛兵の獣人たちさえ、あの愛らしさの前では無力になる。お世話をしたくて仕方ない。あわよくば、触りたい。撫でてみたい。
そんな欲望に飲まれそうになるのだ。
(もしや、何らかの魅了魔法を使っているのでは?)
心配になったが、アーダルベルトが直々に【鑑定眼】で確認しても、そんな魔法やスキルは皆無であったという。
彼女はただ、その身ひとつで「可愛らしい」だけらしい。
おかげで、我が国最強で最恐の魔王、アーダルベルトさえ、子猫を前にすると、様子がおかしくなってしまう。
妖艶な美貌の持ち主であるアーダルベルトは滅多に感情を露わにすることはなかった。
血気盛んな獣人の若者に一騎打ちを挑まれた際にも、眉さえ動かさずに、その眼差しひとつで威圧して意識を刈り取っていた。
彼の驚いた姿や、恐怖に震える様を、シャローンは目にしたことがない。
テオドールなどは「表情筋が死んでいるのだと思います」などと失礼なことを言っていたが、そう心配したくなるほどに、喜怒哀楽を見せることはなかったのだ。
そんな魔王アーダルベルトが、勇者である子猫に対しては、様々な表情を見せている。
傍目にはそう見えずとも、長年彼の近くにいる自分たちには分かるのだ。
瞳を細めて、うっとりと子猫に見惚れている様子だとか。
端正な顔で何やら思案しているような横顔だが、あれは「勇者の匂いを嗅ぎたい」欲望と戦っている姿なのだということを、既に自分たちは知っている。
たまに欲望に負けて、後頭部に顔を埋めている様も何度か目にしたことがあった。
魔王の名誉を守るために、そっと視線を逸らせて見ていない振りをしたこともある。
(まさか、これほどにミヤさまを可愛がられるなんて……!)
情操教育に悩んだものだが、一気に情緒が育ってくれた。これはお祝いをしなければ。無邪気に喜んでいたシャローンだったが、まさか子猫の勇者が、人の姿へと変わるとは思いもしなかった。