あれは、魔王の生誕祭。宴もたけなわな頃、唐突にアーダルベルトが玉座から転移したのだ。
得意の闇魔法で影に潜り、姿を消した主役にテオドールは頭を抱えていたが、追加の酒を皆に振舞って、どうにか乗り切っていた。魔族や獣人は酒好きが多いので、ごまかせたようだ。
宴の場はテオドールに任せて、シャローンは大急ぎで魔王の寝室に向かった。
アーダルベルトがあれほどに感情を露わにする相手は、ミヤしかいない。きっと、彼女に何か良くないことがあったのだろう。
幾重にも張られた結界で守られているはずだが、襲撃があったのだろうか。
魔王城は堅固だが、今宵はあらゆる貴族、部族を招いての宴の最中。良からぬ者も招き入れてしまった可能性がある。
(召喚勇者とはいっても、ミヤさまは可愛いだけの最弱の存在。心配です!)
アーダルベルトのように転移の魔法が使えないことが、もどかしかった。
魔王の寝室に辿り着いたシャローンは、ノックをするのも忘れて、ドアを開けた。
室内に飛び込んで、真っ先に目に入ったのは、敬愛する主人が小さな少女を抱き締めて、その首筋に咬みつこうとする姿だった──
「あの時は本当に焦りました。咄嗟に回し蹴りを決めてしまいましたが、後悔はしていません」
にっこりと微笑むシャローンの前で、アーダルベルトは悄然と項垂れている。
「悪かった。そして、感謝する。勇者を傷付けてしまうところだった」
「まぁ、仕方がありません。『魂のツガイ』ですもの。魔力が多ければ多いほど、その拘束力は類を見ないほどに強くなると聞いております」
忠実な部下としてはあり得ないが、魔王アーダルベルトを昏倒させたシャローンは、当の本人から感謝された。
「あんな小さな子供に対しても、ツガイの誘惑が働くとは思いもしなかった……」
アーダルベルトが嘆息する。顔色がとても悪い。自分でもショックだったのだろう。
「陛下に、そんな趣味がなくて、ようございました」
「よせ。想像させるな。私に幼女趣味はない」
「あらあら。ミヤさまは幼女ではありませんよ。もう少し、成長されています。正確には、少女趣味、ですわね」
「それも違う」
頭を抱えて低く呻く、魔王の姿にシャローンはくすくすと笑った。
「ふふ、分かっておりますよ。貴方にそんな醜い下心はないことなど。純粋にあの子のことを大切にしたいと、そう想っておりますね?」
「──アレは召喚勇者だ」
「そうですわね」
「そして、私は魔王」
「存じております」
「ありえない。敵対する相手が、まさかツガイだなどと……」
「運命の神は時に残酷なことをなさいます」
ふと、アーダルベルトが顔を上げた。視線の先には、ソファで眠る少女ミヤがいる。人の姿になってはいるが、子猫の時と同様に良く眠る。あどけない寝顔は平和そのものだ。
小さな子猫は、ほっそりとした手足を持つ愛らしい少女へと姿を変えている。子猫の名残りか、三角の獣の耳とふかふかの尻尾を付けた状態で。
異世界から召喚される勇者は、人間だ。エルフや獣人などの亜人種はいない。
そのはずだったが、ミヤは猫の姿で召喚され、今は獣人の少女の姿をしている。
「不思議なことが続きますが、それもまた運命なのかと」
「とんだ運命に巻き込まれたものだ」
「でも、私は感謝しておりますよ? ミヤさまが異世界から召喚されなければ、アーダルベルトさまは『魂のツガイ』と出逢えることはなかったのですから」
「……それはそう、だが」
そわそわと視線を揺らす、アーダルベルト。
ツガイを目にした男は落ち着きがなくなるものなので、シャローンは気にしない。
すぴすぴと気持ち良さそうにソファで寝息を立てている少女の傍にいきたくて仕方がないのだろう。魔族はツガイに対する執着心が殊更強いことで有名だ。
同じ魔族同士なら、仲の良い夫婦だと笑い話で済むところだが、種族が違うと、執着に温度差があって大変なのだということも良く知られている。
特に魔族のツガイ相手が人族だと、悲劇か喜劇になるらしい。
(人間は魔力が少なく、五感も我々より劣っている。だから、彼らはツガイを意識しない……)
魔族の王であるアーダルベルトは、ツガイを惑わす匂いにずっと悩まされているはず。
(理性には自信があったはずのアーダルベルトさまが一瞬で虜になって、マーキングをしようとしたくらい、強烈みたいですからね)
うなじを咬んで、己の匂いを付けるマーキング行為。
アーダルベルトほどの魔力を持つ魔族のマーキングなら、誰も少女に手を出そうとしないだろう。余程の自信家か、死にたがりでない限りは。
だが、あんな幼い少女のうちから歴代最強と恐れられている魔王のマーキングを受けたら、苦労することは明白だ。
魔族や獣人など、鼻の利く人々はアーダルベルトを恐れて、ミヤに近付くことさえできなくなるだろう。虫除けと同時に、魔王に反逆心を持つ者を引き寄せる餌にもなるので、シャローンは決死の思いでマーキング行為を止めたのだ。
「ミヤさまを守るには、もう少しだけ我慢が必要です」
「分かっている」
「成長して、勇者としての力が目覚めれば、自力で敵対者は排除できるようになるでしょうが……」
ちらり、と二人は同時にミヤへ視線を向ける。
「ふみゃあ……」
ソファの上で丸まって眠る猫耳の少女が、愛らしい声音で寝言を口にする。
折れそうに細い手足が何とも頼りない。
アーダルベルトの【鑑定眼】スキルで確認したところ、獣人の姿に変化した勇者のステータスには、年齢が十歳となっていたらしい。
(十歳。……生後一ヶ月よりは育っていますが、まだまだお子様です)
不老長寿の魔族やエルフにとっては、卵の殻をお尻につけたヒヨコと変わりない年齢だ。
大事に、大切に。それこそ掌中の珠のように愛でるべき、いとし子である。
「幸い、賢者さまによると、猫の成長は早いそうです。一年でほぼ大人と変わらないまで育つそうなので、それを期待しましょう」
「……うむ」
「元の子猫の姿の時には、それほど暴走はされないのでしょう?」
それほど、という響きに微かに眉を寄せたが、アーダルベルトはシャローンの問いに素直に頷いた。
「ああ。猫の姿の勇者には、うなじに牙を立てたいと感じたことはない」
「良かったです。それならば、満月の三日間だけ、アーダルベルトさまが理性を働かせれば、ミヤさまに悲劇は起きません。……良いですわね? 我慢ですわよ?」
「分かっている」
一ヶ月の内、月に魔力が満ち溢れるのは三日の間のみ。
その三日間をどうにか乗り切れば、おそらくは元の子猫の姿に戻るはずなのだ。