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満月の間の三日、宰相であるテオドールは常に魔王アーダルベルトの傍らに張り付いていた。
魔王の有能な右腕として
油断をすると、『魂のツガイ』相手である、勇者ミヤのもとへ夜這いをするかもしれない。そう脅しつけられたため、テオドールは彼から目を離さず、次々と書類仕事を積み重ねていったのだ。
まだ、魔法もまともに使えない、己の身を守ることさえできない勇者など、魔王の前では美味しいデザートでしかない。【鑑定】によると、十歳の少女だとか。事案である。
そんな幼い少女のうなじにマーキングを施す幼馴染みの姿など、絶対に見たくないため、気の毒に思いつつも「大事な仕事です」と書類の山を築いているのだ。
(たまに逃げ出すことはあっても、基本は真面目な方なのだ。我が国にとっての大切な仕事だと伝えれば、文句をこぼしつつも執務室に閉じ込めておくことができるはず)
当の魔王アーダルベルト本人も、仕事に集中している方が落ち着くようで、意外にも大人しく執務机に向かってくれた。
獣人姿となったミヤは魔王の寝室から連れ出され、客間のひとつに移されている。
当初は姿が変わったことにパニックになっていたようだが、シャローンが宥めたことで落ち着きを取り戻し、元気に日々を過ごしているらしい。
世話を頼んでいるメイドから聞き出したところ、自分の手で食事を取れることを喜び、針子が急ぎで縫ったワンピースをとても気に入っているようだ。
現在、王城には尊い女性が不在なため、腕の揮い場がなかった針子たちが大いに張り切っているとかで、急遽予算を組んだ。
豪華なドレスや宝飾品を欲しがるような少女ではないため、ツガイ候補の予算は一割も減っていない。シンプルな衣服にリボンを手渡すと、大仰なほどに喜んでくれたらしい。
メイドがさりげなく聞き出したところによると、元の世界では自室もなく、新品の服を手にしたこともないのだとか。
出された食事も文句を言うことなく、どれも美味しいと笑顔で平らげるそうで、見聞きしたメイドたちはすっかり少女にほだされているようだ。
食事がとても美味しかった、と直々に料理人にお礼を言いにいったらしく、普段そんな言葉をもらうこともなかった厨房の者にも気に入られたようだった。
今では「故郷の味」なるレシピを料理人と共に研究して、新しいスイーツを作りだしているとか。
「意外と満喫しているようですね、勇者ミヤさまは」
「うふふ。本当ね。とても愛らしいのよ」
「……母上もすっかり夢中になって」
「だって、ずっと女の子が欲しかったのよ、私。息子は二人とも可愛げなく育ってしまったし。アーダルベルトさまも昔は可愛らしかったのよね……」
「男ですから、可愛いも何もありませんよ、母上」
「あら。男の方こそ愛嬌が必要なのに」
「初耳です」
くすりと、シャローンが笑う。
「ああ、そうだわ。ミヤさまが魔法に興味を持たれたようだから、魔導書を読ませてあげています。素質はあるので、すぐに覚えてくれそうよ?」
「召喚勇者なら、魔法もすぐに覚えるでしょうが……獣人の姿でも扱えるのでしょうか」
テオドールは懐疑的だった。魔族とエルフは魔法が得意だ。ドワーフも【火魔法】と【土魔法】を扱える。人間もごく少数だが魔法使いはいるが、魔力は少ない。
だが、獣人は魔法を使える者はいなかった。体内の魔力を巡らせて【身体強化】という強化魔法を己に施せる者もいるが、四属性の魔法を放つことはできない。
「アーダルベルトさまの【鑑定眼】によれば、【全属性魔法】を扱えるらしいわよ?」
「全属性の魔法を……⁉ まさか、そんな!」
顔色を変える息子を眺めて、シャローンは肩を竦めてみせた。
「嘘は言っていないわよ。それこそ、ステータスは嘘をつけない。どんな魔法を使えるようになるのか、今から楽しみだわ」
ふふっと微笑むシャローン。テオドールは口元を手で覆った。
「魔法に長けた我が種族、エルフ族でさえ【全属性魔法】を扱える者はいない。母上でさえ、三属性しか習得できなかったのに……?」
「そうね。かつて魔族の長老が四属性使いだったと聞いたことはあるけれど……。もしかして、ミヤさまはそれを越える逸材かもしれないわね?」
「なんと……!」
驚いたが、それは朗報でもある。
「アーダルベルトさまの『魂のツガイ』相手である勇者がそれほどの逸材であれば、国内どころか他国にも牽制ができますね」
シャローンの笑みが深くなる。
「ええ、そうね。歴代最強の魔王と、その魔王さえ倒せるほどの能力を秘めた勇者が手を組むのよ。周辺国がすべて敵に回ったとしても、圧倒的な強さで膝を折らせることも可能だと思うわ」
「祝杯を上げましょう」
思わず、そう口ずさんでしまい、「気が早いわ」と笑われてしまった。
◆◇◆
などと、母と会話を交わした翌日。さっそく魔王と勇者は問題を起こした。
いや、問題を起こしたのは勇者だけか。一応、我が魔王陛下は問題を解決した側になる。
魔法を覚えて、さっそく試し打ちをしたくなった勇者が中庭で未熟な【火魔法】を発動して、もう少しで大火事になるところだったようだ。
そこを、こっそり勇者を盗み見──観察していたアーダルベルトによって、無事に消火され、人騒がせな少女は保護されたのだった。
心配だった『魂のツガイ』を前にしての暴走は、どうにか耐えられたようだ。
感心したのも束の間。鉄の意志の持ち主だと褒め称えたところ、気まずそうに視線を逸らされた。追及すると、単に息を止めて匂いを嗅がないようにしただけだったようだ。
少しだけ呆れてしまったが、努力は認めよう。
「匂いを遮断できれば、理性が制御できるのですか……」
ふむ、と腕組みするテオドール。
「ならば、賢者が以前に作ったマスクとやらを使ってみるのはどうですか?」
感染症を予防するのにいい、と賢者が発明した布製のマスクだ。実際、医療関係者に使わせたところ、感染者数を大幅に減らすことができたらしい。
ある程度の匂いを
だが、この提案をアーダルベルトは却下した。憂いに満ちた眼差しで首を振る。
「試してみたが、ツガイの匂いを遮断する効果はなかった」
「そうですか……。残念です」
ツガイの発する匂いは、当事者間ではとても強いらしく、布程度ではごまかせないようだ。
「やはり呼吸を止めておくのが最善だと思う。どうにか十五分ほど耐えられるよう、努力しているところだ」
「貴方の勤勉なところはとても好ましく思いますが、呼吸を止める練習はやめてください」
乳兄弟として、幼馴染みとして、テオドールは友人の愚行をたしなめた。
「良い考えだと思ったのだが……」
「途中で耐えられなくなって、息を吸い込んだら終わりでしょう」
「はっ……」
それもそうだ、という表情を浮かべるアーダルベルトを目にして、テオドールは額を押さえた。我が主はこれほど阿呆だっただろうか、と遠い目になる。
(恋をすると、ひとは愚者になるのだろうか……)
だが、そんな幼馴染みのことをテオドールは嫌いにはなれなかった。
(何より、以前はあった鬱屈した心の闇が、すっかり晴れていることが嬉しい)
おそらくは、母もそれに気付いているはずだ。だから、硬く閉ざされていた彼の心を開いてくれた勇者ミヤに感謝しているのだろう──