「……やはり、満月の間は勇者と会わない方がいいのだろうか」
アーダルベルトが目に見えて落ち込んでいる。
子猫が傍にいなくなって、すっかり食欲をなくした彼には無理やりスープだけは飲ませていた。無理をしないよう、仕事が終われば寝室に押し込んでいたが、あまり眠れてもいないようだ。
先程、少しだけ少女と触れ合うことができて、ようやく血色を取り戻したのに。
「──分かりました。私も特訓に協力しましょう。長く呼吸を止めていられるよう、秒単位で記録を伸ばしますよ」
顔を上げて宣言すると、アーダルベルトの瞳に力が戻る。
「うむ! 協力を感謝するぞ、テオドール!」
さっそく執務室で呼吸を止める練習を始める二人。
一時間後、ワゴンで紅茶を運んできたシャローンがそんな二人に気付き、呆れた視線を向けた。
「呼吸を止めるくらいならば、風魔法で匂いを遮断すれば良いのでは?」
「…………ッ!」
がくり、とアーダルベルトが両膝を地面についた。魔王、敗北の瞬間である。
魔王の右腕、懐刀と褒めそやされていた宰相テオドールは天を仰いだ。
「どうやら阿呆は感染するようです……」
シャローンの協力もあり、風魔法での実験に成功した。
本気を出した三人の集中力は凄まじく、新しい魔法だというのに、十分ほどで習得することができた。かくして、魔王は匂いを遮断する風の結界魔法を開発したのであった。
「これで、勇者と共に過ごせるぞ……!」
拳を握り締めて喜ぶ魔王に向かい、シャローンが楚々と笑う。
「日中だけですよ。寝室は別です」
「…………くっ…安眠がっ!」
「我慢することです。嫌われたくなければ」
「き、嫌われ、たくはない……」
「ミヤさまそっくりの子猫のぬいぐるみを作って差し上げますから」
「…………我慢する」
血涙を流す幼馴染みから、テオドールはそっと視線を逸らせた。
◆◇◆
そうして、満月を終えた翌日。無事に勇者は少女の姿から、元の子猫の姿に戻った。
子猫の姿に戻ると、『魂のツガイ』の効力は弱まるため、魔王アーダルベルトは存分に勇者ミヤと触れ合うことができる。
満月期間中、ひたすら書類仕事を片付けたおかげで、しばらくは休暇を取っても問題ないだろう。宰相特権で、魔王陛下の代理として執務室で過ごすことにした。
「……せっかくの休日なのに、寝て過ごしているのですか」
忠実な使い魔蜘蛛が定期的に二人の様子を報告してくれる。
さすがにプライベート部分までは侵入させていないが(させたとしても、アーダルベルトが瞬時に潰してしまう)魔王と勇者の二人が寝室にこもって出てこないことは部屋の外からでも分かった。
「まぁ、しばらくは眠れていないので、仕方がありませんね」
この際、しっかりと疲れを取ってくれるのなら、問題ないだろう。
朝食も取らずにベッドに引きずりこまれた勇者な子猫には申し訳ないが、数時間ほど付き合ってもらおう。よほど腹が減ったら、さすがに子猫が起こしてくれるはずだ。
テオドールの予想通り、昼前になって二人はようやく寝室から出てきたらしい。
珍しく、艶やかな長髪に寝ぐせをつけたまま、アーダルベルトは食堂でしっかりと朝食兼昼食を平らげたようだ。使い魔蜘蛛が映像を見せてくれる。
「……これは、パンでしょうか」
何やら見たことのないものを美味しそうに食べているのが気になった。
アーダルベルトがそっとフォークを押し当てると、ふわりとした弾力に跳ね返されていた。
ふわふわだ。あんなパンがあるのだろうか。ナイフとフォークを器用に使い、小さくカットすると、クリームを添えて子猫に食べさせてやっている。
幸せそうに瞳を細めて、幸せそうに咀嚼する子猫の姿にテオドールの視線は釘付けだ。こくりと喉が鳴っていた。あれは何だろう。クリームにジャム、蜂蜜までかけて食べている。
甘い菓子をそれほど好んでいないはずのアーダルベルトが舌鼓を打っているということは、よほど美味なのに違いない。もしや、あれは勇者が持ち込んだ異世界のレシピの産物か。
「料理長に確認するべきですね、これは」
可及的速やかに報告が必要な案件だ。テオドールは職権を乱用して、使い魔蜘蛛に手紙を託した。料理長へ「陛下と勇者が食べた不思議な食べ物を調査したい」と連絡する。
ちょうど昼時に、執務室の扉がノックされた。
「どうぞ」
「失礼します。お食事をお持ちしました」
「ありがとうございま……なぜ、母上が?」
「なぜも何もありませんよ。わざわざ宰相様が極秘の書簡を回してきたくらいなので、よほどの内容なのだろうと気を回した料理長から託されたのです」
余計な気遣いをさせてしまったようだ。気になる食べ物だからと、早計すぎたかと反省する。
「お手数をお掛けしました。ありがとうございまし……なぜ、ソファに座るのですか、母上」
「私も気になりますので、一緒に食べることにしました。安心なさい。料理長がもう一人前、追加で作ってくださいましたので」
「はぁ……母上も気になっていた、と」
「お二人とも、それはもう幸せそうに食べていらっしゃいましたので。うふふ」
そんなわけで、親子で応接用のソファに座り、料理長曰くの「パンケーキ」という食べ物を調査することになった。
わくわくしながら、さっそくナイフで一口サイズにして、頬張ってみる。まずは何もつけずに、膨らんだ生地部分のみを。仄かな甘味とバターの風味がする、ふわとろの食感に目を丸くした。
「ほう……面白い食感ですね。ここにクリームをつけて食べると……これはすばらしい」
「まぁ! やわらかくてとろけそう。とても美味しいわ。酸味のきいたジャムと甘いクリームの相性が抜群ですね。口にすると、幸せな気分に浸れます」
「同感です。特に変わった食材は使われていないのに贅沢な気持ちを味わえる、面白い料理ですね。これが異世界の料理なのですか……」
乳兄弟と違って、テオドールは甘味を好んでいる。エルフ族は甘い食べ物にとても弱いのだ。
「ミヤさまはこのようなスイーツのレシピをまだたくさん知っているようなのです」
「それは
顔を見合わせて、親子で頷き合った。
「ミヤさまは大切な客人としてもてなされるだけでは落ち着かないと仰っておりました。できる仕事があれば、やってみたいと。なれば、このレシピを提供する仕事というのはどうでしょう?」
「すばらしいです、母上。さっそく予算を組みましょう。王城の名物にしてもいいですね」
「商業ギルドにレシピを登録して販売する方法もあるわね」
異世界の素晴らしいスイーツを味わえる予感に、テオドールは静かに歓喜した。