アーダルベルトはティグルの葛藤にも気付かず、淡々と説明を続ける。
「獣人姿の時は、特に問題はないのだ。多少、舌足らずではあるが、可愛らしい言葉で話すことができるからな」
「可愛らしい言葉……?」
「うむ、可愛らしいのだ。語尾にニャアが付く。ナ行が難しいようだ。……まぁ、そこはいい」
良くはない。まったく良くはないが、話が進まないので、ティグルは賢明にも口を噤んだ。
魔王アーダルベルトは至極真面目な表情で話を続けた。
「問題は子猫の姿の時の勇者だ。子猫の姿であるから、当然、言葉を綴ることができない。本人曰く、最弱の勇者らしいが、それでも異世界からの召喚勇者。四属性すべての魔法を使いこなし、精霊を見る能力もある、稀有な存在だ」
「……精霊? よもや、昨日の騒ぎは……」
「ふ、さすがに察しがいいな、ティグル。貴公の想像通りだ」
「ふむ……。それは、いささか心配なことですな、陛下」
ティグルは眉間にシワを寄せて、考え込む。
昨日の騒動とは、王城を中心に癒しの雨と光が降り注いだ、奇跡の所業のことだ。
半日しかたっていないのに、もう既に噂が出回っており、人々が浮足立っている。
それほどに強力な魔法が使えるのは、精霊か神の
精霊を目にすることができるのは、エルフのみ。
希少な精霊に力を貸してもらい、魔法を行使する【精霊魔法】が使えるのは、その中でも少数のエルフだけだと聞いたことがある。
豊穣と癒しを与えてくれる精霊の【植物魔法】が使える人材は、さらに少ない。
(王都では陛下の元乳母であった侍女長のみ。エルフの隠れ里の長老たちも使える者がいるのだったか……? どちらにしろ、奇跡レベルの【精霊魔法】が扱えるとは聞いたことはない)
つまり、精霊を見る能力があるとアーダルベルトが教えてくれた、勇者が元凶なのだろう。
「規格外の力の持ち主である勇者には信頼できる護衛騎士が必要だ」
「そうでしょうな。あれほどの【精霊魔法】の使い手を、帝国が狙わないわけがない」
「本来なら、私が護衛につきたいところだが──」
「ご冗談ですよね、陛下?」
ひんやりとした冷気──もはや殺気に近いが──を感じて、ティグルはぶるりと背を震わせた。自慢の尻尾が膨らんでしまっている。それほどまでに、氷の宰相閣下の眼差しが恐ろしい。
アーダルベルトは「……こう言われるからな?」と肩を竦めて苦笑する。
「護衛騎士ですか。失礼ですが、自慢の近衛兵を勇者殿の護衛に当てるのは難しいので?」
「最初は彼らに任せるつもりでいたのだが、オオカミ族の獣人たちは、なぜか勇者に甘くてだな……。護衛対象である子猫から、すっかり舐められてしまっているのだ」
「ああ……それはいけませんな。護衛の指示に従ってくれないと、困ります」
なるほど、とティグルは納得する。
(だが、オオカミ族の獣人たちは生真面目が服を着たような連中だったはずだが、勇者に甘いとはどういうことだ……?)
不思議に思ったが、魔王陛下直々に信頼できる護衛騎士を選んで欲しいと頼まれたティグルは悪い気はしなかった。自慢の獣人部隊から、相性の良い者を引き抜くことを決める。
「しかし、どうしてまた、私に声を掛けられたのですか?」
こういった人事的な事柄は、どちらかと言えば、宰相であるテオドールの方が得意であったはずだ。
「最初に説明しただろう。勇者の種族はネコである、と」
「ああ……我ら、虎族と祖先が同じであるという? それがいったい……」
ふと、ティグルは言葉を詰まらせた。何だか嫌な予感がする。
勇者が獣人姿になるのは、次の満月の頃だと陛下は仰った。
つまり、今は子猫の姿でいるということで──
「同じ祖先であれば、言葉も通じるはず。勇者が気に入る人材をうまく聞き出して、護衛騎士を選んでくれ。頼んだぞ、ティグル」
「──ご命令、しかと承りました」
祖先が同じかもしれない、という曖昧な情報のみで、厄介な頼みごとを引き受けさせられたティグルはがっくりと大きな肩を落とした。
◆◇◆
「まずは、勇者を紹介しよう」
満足げに微笑みながら、アーダルベルトが傍らのベルを鳴らす。
しばらくすると、ドアがノックされ、侍女長がしずしずと執務室に入ってきた。
両腕に何かを大切そうに抱えた姿で。ティグルを目にすると、やわらかに笑んで一礼する。
「久方ぶりであるな、シャローン殿」
「ティグル副将軍もご機嫌麗しく」
「堅苦しい挨拶は不要だ。侍女長、勇者をこちらに」
「はい、陛下」
侍女長が腕の中に抱えていた布の塊を、そっとアーダルベルトに手渡した。
どうやら、その中にお目当ての勇者がいるらしい。
(本当に小さいな……)
ほっそりとした体躯のエルフの腕の中に収まるほどの大きさの、ネコという動物に興味がわいてきた。異世界にしかいない動物とは、どんな姿をしているのだろうか。
「まだ眠っているのか、勇者よ」
布ごと勇者を引き取った魔王アーダルベルトが、見たことのない表情で囁いている。
男であるティグルさえ見惚れることのある、玲瓏とした美貌の持ち主であるアーダルベルトが、うっとりと瞳を和らげて語りかける様に、言葉をなくした。
(誰だ、これは⁉)
思わず、そう叫びだしたくなるほどに、いつもの魔王陛下とは思えない表情と声音だった。
甘い焼き菓子に蜂蜜をたっぷりと塗りたくり、さらに砂糖をしこたま振りかけたくらいに、アーダルベルトが勇者を見る目と語りかける声音が甘い。
「胸やけしそうだ……」
「私はもうずっと、胃薬の世話になっております」
ぽつりとこぼした独り言に、宰相テオドールの同意が返ってきた。
さりげなく視線をやると、美貌のエルフの目が死んだ魚のよう。
いつもこんな調子なら、すぐ近くで見聞きさせられている宰相のこの姿も納得だ。
「お前さんも苦労しているんだな……」
「ありがとうございます。でも、副将軍もすぐに仲間入りですよ?」
「あー……同情して損した」
「ふふ。私は心強いです」
現実逃避的にぼやいている間も、魔王アーダルベルトは優しい声音で、腕の中の子猫を起こそうとしていた。
構図だけ見れば、どこぞの聖母子像だ。
片方は立派なツノのある魔王で、抱っこされているのはネコという動物だが。