ざざ、と風が吹き抜ける。
一年で一番暑い季節。戦の時を想定し、しっかりとした塀に囲まれた橘の屋敷は広大で、掃除だけでも大仕事だ。外廊下の床を拭いている碧音の額には、汗が滲んでいる。
碧音はこの屋敷の当主──橘
──橘氏。
代々呪符を用いて呪いを解いたり、時には敵対者に呪いをかけたりする
その才をもって、権力者達から重宝される術者としての歴史を積み重ね、今では豪族として認識されている。
もちろん、橘家にも呪符術を使えない者が生まれることはある。碧音もそうだ。そういった者は、橘家を出て、外で生きるのが決まりだ。
だが、碧音の場合はそうはいかなかった。才能が皆無とはいえ、橘家当主の娘。一族を離れることも許されない。
結果として、下働きのような仕事をさせられている。
「碧音様、茶の用意をしてもらえますか?」
廊下の向こうから甲高い声が響いた。父の側近──橘
佐祐は、橘家の中でも傍系出身なのだが、呪符術を使えない碧音より、父の側近である自分の方が上の立場だと思っているらしい。こうやって、あれこれ彼に言いつけられるようになったのは、いつからだろうか。覚えてすらいない。
「……すぐに持っていきます」
碧音は立ち上がった。
一応碧音様とは呼ばれているが、佐祐の声音には碧音に対する敬意なんてまったくなかった。
ぐずぐずしていたら、また何を言われるかわからない。
厨では、既に何人もの使用人が夕餉の準備を始めていた。汁物を作っているいい香りも漂っている。
碧音が足を踏み入れた瞬間、彼らの視線がこちらに集中した。その視線は、好意的なものではない。
「今日、碧音様は厨の係ではなかったですよね」
悪意というほどではないにしても、ここは碧音の来るべきではないと告げているような声音。
もう慣れてしまっているからか、いちいち反論する気にもなれない。
「お茶を頼まれたの。お湯をいただけるかしら」
「どうぞ」
用もなく来たわけではないと知ったとたん、相手の興味は失われた。
厨の隅で湯を沸かし、茶を整えて父の部屋まで戻る。
「お茶をお持ちしました」
父の部屋の前では、佐祐が待ちくたびれたというように足を小刻みに動かしていた。
「遅かったですね。そこに置いておいてください」
佐祐の背後には、父の部屋に通じる戸がある。その戸の向こうからは、誰かの笑い声がかすかに聞こえていた。客人を迎えているらしい。
戸の前で一礼した碧音は静かに盆を置き、掃除の続きに戻る。
掃除が終われば、今日は部屋に戻ることができる。雑巾を絞った時、廊下の向こうから人の気配がした。
顔を上げると、歩いてきたのは美しい刺繍の施された衣を身に着けた
彼女の華やかな美貌は、衣の美しさにも負けてはいない。金の髪飾りで飾られた髪は艶やかな黒。大きな目が碧音を見つめている。
「碧音、こんなところで何をしているの?」
「……掃除」
見ればわかるだろうに、わざわざ声をかけてくる。とはいえ、綾女の声音に碧音を馬鹿にするような気配はなかった。従姉妹としての情はあるらしい。
「そんなの、あなたの仕事ではないでしょうに」
「そういうわけにはいかないわ。自分にできることをしないと」
綾女の前に出ると、どうしたって卑屈な自分が出てきてしまう。
彼女の顔を見ることができなくて、今まで雑巾をかけていた廊下に視線を落とした。
綾女は、その美貌もさることながら呪符を扱う才に恵まれている。幼い頃から一族の中でも抜きんでた才能を示し、師匠にあたる年配の呪符師をうならせるほどだった。
橘の才を碧音が受け継がなかった今、綾女が橘の才、そして家を継ぐ者として認識されている。
「でも、あなたには掃除よりももっと大切なことがあるでしょう? もうすぐ、成人の儀だもの」
「ええ。終わったら、自分の訓練をするつもり」
「……そう。頑張ってね」
艶やかな笑みをひとつ残し、綾女は父の部屋がある方向に去っていく。
通りすがりに、ふわりと香の香りがした。掃除も忘れたまま、碧音は彼女の後ろ姿を見送った。