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第2話 与えられた猶予

 綾女が角を曲がって姿を消してから、大きく息を吐き出す。

 胸を刺すのは、痛み。

 綾女と顔を合わせる度に、自分が小さく感じられる。


(昔は、こうではなかったのに)


 十歳の頃までは、いつかは才に目覚めるだろうと気長に見守られていた。

 実際に、十歳を超えてから術の才が現れた例も長い橘の歴史の中には存在したのだから。

 だが、何度術を発動しようとしても、碧音は術を使うことはできなかった。

 今は下働きのような仕事でもいい。橘の家にいられるのだから。

 けれど、もし、このまま呪符師としての才能が目覚めなかったなら? 


 残された時間は少ないのだと、ひしひしと感じてしまう。

 やっと廊下の掃除を終え、掃除道具を片づけた時だった。再びこちらに来た佐祐が声をかけてくる。


「碧音様、当主様がお呼びです」

「父が……ですか?」


 日頃は、碧音のことなど目に入らないかのように暮らしている父が、わざわざ呼び出すなんて。


「ええ、大切なお話があるようですよ」


 佐祐は、わざわざ碧音を捜しに来るよう命じられたのが不服なのだろう。不満の色が、彼の顔には浮かんでいた。


「道具を片づけたら、うかがいますと伝えてください」


 掃除をしていたから、身に着けているのは、当主の家の者が着るような衣ではなく、下働きの者と大差ない簡易な衣。だが、着替えに戻る時間はない。

 父の部屋へと足を急がせながら、懸命に乱れた髪を撫でつける。父の前に、みっともない姿で出たくはなかった。

 先ほど、茶を運んだ戸の前で声をかける。


「碧音、まいりました」

「入れ」


 入室を許されて中に入ると、父だけではなく、綾女もいた。客人はもう帰ったらしく、室内にいるのは二人だけだ。


「そこに座れ」


 父の声は淡々としていて、娘に向けるものではない。

 座して頭を下げると、父はさらに厳しい眼差しを向けてきた。


「今日、神殿から祭祀の手助けをしてほしいと申し入れがあった」


 神殿からの依頼──それ自体は珍しくない。橘氏は呪符術の名家だから、儀式の手伝いをするのは日常の一部とも言える。先ほどの客人は、神殿からの使者だったのだろう。

 橘家の者が手伝いに呼ばれるのは珍しくないが、呼ばれた理由がわからない。呪符術を使えない碧音が、今まで儀式の手伝いを頼まれたことはなかった。


「今回の依頼、人手が足りなくなりそうでな。お前にも手伝ってもらう」

「碧音なら、神具の扱いもわかっているでしょう? 他の人に任せるのは不安だから」


 綾女が、父の言葉に重ねて言った。神具は大変貴重なものが多い。

 そのため、手伝いを頼まれた時には、使用人ではなく、橘の血を引く者が手伝いに行くのが決まりだった。

 だが、このところ呪符術を求める者が急激に増えており、人手が足りなくなってしまったということらしい。


「はい、かしこまりました」


 座したまま、視線を上げずに答える。

 父の前で、顔を上げられなくなったのはいつからだろうか。


(もし、成人の儀で呪符師としての能力が目覚めたなら……お父様は私を見てくれる?)


 今までで、能力が目覚めるまでに一番時間がかかったのは、十八歳で目覚めた者だそうだ。成人の儀を終えた直後だったという。

 それ以来、能力の欠片も感じられなかったとしても、成人の儀までは様子を見るのが通例となっている。


「三日後、例年通り一族としての成人の儀式は行うが、それで目覚めなければ……」


 父は、そこで意味ありげに言葉を切る。

 だが、父の表情から察することができる。この家を出て行けと言いたいのだろう。

 その時には、縁談を押し付けられるか、他の土地に送り込まれるかだ。

 それがこの屋敷での暗黙の了解。碧音自身も理解していた。


「わかりました。成人の儀に備え……努力します」


 どこか虚しい響きだが、今はこう言うしかない。

 呪符を扱えないままでは、橘氏の中で生きていくことは許されないのだから。


「それならいい。綾女、儀式についてはお前から教えてやれ」

「ええ、伯父様。お任せくださいませ」


 父と碧音より、父と綾女の方がよほど親子のように見える。碧音はひそかに胸の中でため息をついた。

 目線で出ていくよう合図され、頭を下げてから部屋を出る。最後に見た綾女の横顔には、穏やかな表情の裏で何かが蠢いているように見えた。


(部屋に戻ったら、もう一度、訓練しなきゃ)


 瞑想をして、身体をめぐる霊力が少しでも高くなることを期待する。成人の儀までの間、碧音にできるのはそのぐらいだから。







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