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第3話 父の失望

 不安に心を乱されたまま、成人の儀の当日となった。

 今日ばかりは、下働きの仕事も免除されているが、いつもと同じ時間に目が覚めてしまう。

 冷たい水で顔を洗い、髪をきっちりと結った。

 ひりつく心臓をなだめながら、一族の古式に則った儀式用の衣に袖を通す。

 成人を迎える者だけが着用する瑠璃色の衣には、淡い紋様が刺繍されている。本来なら凛とした美しさを纏うはずなのに、碧音の胸には不安しかない。


「刻限です。参りましょう」


 やがて部屋の戸がすうっと開き、年配の呪符師が碧音を迎えに来た。


(……どうしよう)


 心臓がドキドキとしていて、いっこうにおさまってくれそうにない。静々と儀式の間へ向かう間も、碧音の心臓はせわしない鼓動を立てっぱなしだ。

 儀式のために用意された部屋の中央には、霊力を確認するための呪符と香炉、そして式盤が置かれていた。香炉からはほのかに清浄な香りが立ち上り、空気は張り詰めている。


 隣室には一族の者達が待機しているらしい。

 そして、式盤の向こう側には祭壇が用意されている。


「では、始めます」


 儀式を執り行う呪符師が厳かな声で宣言すると、碧音は恐る恐る式盤に近寄った。

 式盤には、呪符が用意されている。薄い白の呪符には、定められた文言があらかじめ描き込まれており、術者が充分な霊力を流れ込めば、光を放つ。

 碧音は震える指先でその呪符を持ち、目を閉じて深く息を吸う。胸の内で必死に念じながら祭壇に近寄った。


(どうか、私にも……力があってほしい。せめて、一度だけでも)


 息を整えて、呪符に自分の霊力を送り込みながら、祈りを捧げる。

 自分の奥底に眠っているかもしれない力を、どうにか呼び覚ましてほしいと。


 胸が苦しくなるほど集中していると、不意にこめかみがじわりと熱を帯びていく。

 心臓が激しく脈打ち、襲い掛かってきたのは、全身の感覚が遠のくような奇妙な感覚。視界の正面にある祭壇が、ゆらりと歪んだようにも見えた。


(来た……? もしかして今こそ……!)


 一瞬、碧音は歓喜した。

 霊力をきちんと呪符に伝えられた。今までは、こんな力を感じたことはなかった。


(お願い、このままもっと呪符を光らせて……お願い……!)


 だが、期待むなしく、集まりかけた力はすうっとかき消えてしまった。

 失望を覚えた時、不意にまぶたの裏に光がよぎった。否、それは光というより、断片的な映像――碧音は息を止めて、それを受け止める。


 誰かの声が遠くで聞こえる。笑っているようでもあり、泣いているようでもある。

 視界は滲んでよくわからないが、どうやら自分は小さな農村のような場所にいるらしい……。


(何、これ……?)


 次の瞬間、急激に風景が切り替わる。

 今度は華やかな屋敷の中庭が広がり、そこには見覚えのない人々が集まっている。

 見覚えのない青年が優しげに手を差し伸べてくれるけれど、その人の目には碧音に対する愛おしさが溢れているようで――。

『龍海様』


 そう呼びかけているのは、碧音自身の声。


「あ……!」


 碧音は小さく叫んで目を開いた。今、見えたものはなんなのだろう。

 まるで、違う人生の記憶が一気に記憶の中に送り込まれてきたような。

 全身から汗が噴き出し、身体が冷たくなっている。

 なんて、生々しい光景だったのだろう。いくつもの人生を、一気に見せられた。いや、いくつもの人生を一気に体験した気がした。

 だが、儀式が失敗したことを悟る。

 身体にずっしりとかかる重みは、成人の儀を終えても能力を開花させられなかった悲しみだろうか。



「……やはり、駄目か」


 背後で小さく吐息をもらす父の声が、恐ろしいほど冷たく響いた。

 やがて儀式が終了すると、周囲の呪符師達はお互い顔を見合わせ、視線をそらす。

 碧音に同情する気もないようだ。

 あれほど望んだ瞬間に、何の成果も得られなかった――どこかで予感していたけれど、泣くことすらできない。


「皆の者、大儀であった。退出してよい」


 集まっていた者達が、いなくなる気配がする。碧音もこのまま立ち去りたかったけれど、父はそれを許してくれるつもりはなさそうだった。

 床の上に膝をつき、視線を上げられずにいる碧音に、父は冷たい声音で言い放った。


「お前は結局なんの力も得られなかったな。よって近々、嫁いでもらう」


 嫁ぐ。

 家を出されるだろうとは思っていたけれど、改めて口にされると不安が一気に押し寄せてくる。碧音は、唇を噛んだ。


「……どなたに、ですか」


澤ノ井さわのい家の当主だ。お前を娶ることで、わが橘家に多額の金を寄進してくれることになっている」

「どうして……?」


 口にしてもしかたないとわかっていても、思わず口からこぼれ出た。

 澤ノ井家の当主は、碧音より四十歳も年上の男だ。何人も妻を娶っていて、毎晩違う妻の部屋で過ごしているらしい。

 そんな相手に、碧音を嫁がせようとするなんて。


「橘家にとっての益を考えたからに決まっているだろう。お前には才がないのだから、それ以外の形で家の役に立ってもらうしかない。先方も若い嫁が欲しいと言っている。ちょうどいいだろう」


 こちらには見向きもせずそう告げる父は、呪符師としての力を見せられなかった娘なんて必要ないと言わんばかりだ。

 彼にとって、娘は道具でしかない。改めてその事実を認識しただけのこと。

 声を上げようとしたところで、碧音は無理矢理口を押さえつけた。


(ここで、反抗したところでどうなるというの)


 わかりきっていたではないか。無能な者は、この家には必要ないということなんて。


「……以上だ。早く部屋に戻れ。ぐずぐずするな」


「……はい、お父様」


 戸を閉めようとしたところで、父が誰かに「先方に書状を送れ。日にちを決める」と命じている声が聞こえた。

 視線を落とすようにして、自分の部屋へと戻る。

 橘家の落ちこぼれが、四十も離れた男に嫁ぐ──噂はすぐに広まるはずだ。


 じくじくとした痛みが休むことなく胸を締めつけ続けている。


「……私は、結局、何もできないままだわ」


 澤ノ井家に嫁いだとしても、きっと碧音の扱いは変わらないのだろう。

 呪符術を使えない碧音を娶ったところで、澤ノ井家に益はない。

 ならば、これからの人生、どう生きていくべきなのだろうか。

 家を出るまでに、その答えをみつけられるか否かで、人生が大きく変わるような気がした。




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