王宮で儀式が行われる当日、いつも以上に早く起床した碧音は、橘家の人々と共に王宮へと足を踏み入れた。
玉津国の王宮は、広大な敷地を取り囲むように木造の建築が連なっている。まず正門をくぐると、見えてくるのは一段高いところにたてられた正殿。政を行ったり、王宮内での儀式を執り行う場所だ。
正殿の両脇には、左右対称に渡り廊下が延びており、そこからさらに次の殿舎へと繋がっていく。
正殿の奥にあるのは、王妃や王子達の住まう宮がある。成人した王子達は、独立した宮を与えられるが、王宮の外に屋敷を構えることもあるという。
そして、同じ敷地の中でも最奥は、神殿の区域だ。
いくつかの建物があるが、その中でも本社と呼ばれる建物は、毎日の儀式を執り行う場所である。その周囲には、
今日は王宮の正殿で儀式が行われることになっており、前日に本社で清められた神具を、王宮の正殿まで運び、定められた位置に配置する神女達の手伝いをするのが碧音に与えられた役目だった。
日は昇りかけているが、まだ人の往来は少なく、王宮の空気は澄んでいる。
振り返った碧音は、正殿の裏手に止めた荷車に積まれた木箱を確認する。
箱の中には儀式に使う神具の数々が納められていた。これを正殿の中央にある広間まで運ばなくてはならない。
「急がなくちゃ」
そうつぶやいた碧音は、重い木箱を持ち上げる。まずは、神具をすべて運び入れる。
神具を並べている間に床の掃除も行わなければならないし、運び込んだ神具の確認、儀式を司る神女達との連絡係──雑用に近いが、儀式を失敗なく進めるためには必要な役目だ。
綾女を始めとした呪符の才を持つ者達は、儀式の要となる装束や札の準備に集中している。
儀式が行われる当日ということもあり、王宮内は多数の人々が行き来していた。事前に言われた場所に箱を置き、すぐに次の箱を取りに戻る。
与えられた時間は少ない。急がなくては。
焦っていた碧音は、角を曲がったところで、誰かにぶつかりそうになってしまった。
「し……失礼しま──」
謝罪しながら顔を上げると、黒地に金の刺繍が施された衣を纏った若い男性がそこに立っていた。
(……嘘でしょう?)
瞬時に、背筋が凍りついた。
謝罪の言葉も、途中で止まってしまう。
こちらを見ている青年は、端正な顔立ちに、穏やかだが芯の強そうな光を放つ目。どこか武人の風格が漂っている。
一瞬で、碧音の胸の奥がざわめく。記憶の底から襲いかかってくるのは、息が詰まるような切なさ、そして……恐怖。
(私……この人と前に会った?)
頭の中をぐるぐると様々な感情が駆け巡る。
成人の儀の時に見た夢が、瞬時に脳裏に浮かぶ。
あの時、いくつも頭をよぎった過去の夢。
この人に想いを寄せたという、ありえないほど確信めいた錯覚だ。
けれど、それに続いて激しい死の恐怖が襲いかかる。
青年は、謝罪の言葉も途中で、じっと立ち尽くしている碧音を怪訝そうな目で見つめていた。
「大丈夫か?」
彼は、こちらに手を伸ばしかけた。その仕草に、碧音の心が悲鳴を上げる。ここには誰もいない。逃げ場がない。
(……嫌、怖い!)
理屈もわからないまま、碧音はとっさに踵を返し、箱を抱えたまま駆け出した。
背後で彼が何か言う声が聞こえた気もするが、足を止める気にはなれない。
(もしあの人に近づいたら、私……また殺される……?)
ただ訳もなく恐ろしくてしかたがない。潜れそうになる足を叱咤して、建物の陰へと逃げ込んだ。
ぺたりとその場に座り込む。
(あの人……儀式の時に、見た。あの時は、龍海って呼ばれていた――)
儀式の時、いくつかひらめいた光景の中、彼とよく似た人を見た。彼の名を呼んでいる声も聞こえた。
――なんで、気が付かなかったのだろう。
龍海王子。彼の名前を聞いたこともあったのに。夢の中の人と彼が結びつかなかった。
しばらく息を潜め、荒い呼吸を整えてから、碧音はようやく我に返った。
「こんな……馬鹿な……私、何をしてるの……」
まだ、儀式の準備は終わっていないのに。
一気に顔が青ざめる。
やらねばならないことはまだまだあるのだ。碧音が抜けた分、祭祀の準備が遅れれば大問題になりかねない。
碧音は深く呼吸をし、気を引き締めて走りだした。
今はあの男のことを考えている場合ではない。自分の役目を果たさなければ。