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第5話 王宮の儀式

 戻った時には、もう儀式が始まるまでの時間はほとんど残されていなかった。


「碧音様、一体どこに行っていたのですか? 儀式の準備が間に合わないじゃないですか」


「こんな時に、怠けるなんて」


 皆に責め立てられ、碧音は言葉を失う。

 怠けていたわけではないが、逃げ出した理由など言えるはずもない。面と向かって「なぜか死ぬほど怖くなった」などと言えば、正気を疑われるだけだ。


「……ごめんなさい。初めてここに来たものだから、道に迷ってしまって」


 言い訳を捻りだせば、鼻で笑われてしまう。

 たしかにここに来たのは初めてだが、迷うような複雑な道ではない。


「こちらの作業は終えたわ。私も手伝えば、なんとかなるのではないかしら?」


 軽やかな足取りでこちらに歩いてきたのは綾女だ。

 若葉色の衣をまとい、髪をすっきりと結い上げている。彼女の動きに合わせて、金の髪飾りがしゃらしゃらと音を立てた。


「神具の配置が終わっていないのね。私も手伝ってあげるから、急ぎましょう」


 神具はひとつひとつ、定めた場所に置かねばならない。碧音はその配置を覚えておらず、渡された配置図を見ながらだから手間取ってしまっている。

 綾女は、文句の一つも言わずに素早く作業に取りかかる。何度も儀式に参加している綾女は、配置図を見なくても神具を適切な場所に並べられるようだ。

 綾女は驚くべき効率のよさで段取りを整え、他の呪符師も合流してなんとか間に合わせることができた。


「やっぱり綾女様がいないと駄目ね」


「碧音様は、橘家の一員だという自覚が足りないのではないかしら」

「呪符も扱えないし、知識の準備すら満足にできないなんて。橘家が恥をかくわけだわ」


 背に突き刺さるような悪口に、碧音は萎縮するしかなかった。自分のせいで時間が押してしまったのも事実だ。何も言い返せない。


「呪符だけでなく、こういう準備の段取りまで完璧なんて、素晴らしいわ」


 まるで碧音の存在など忘れているように、皆は綾女を褒めたたえている。

 あそこで龍海と鉢合わせなければ、ここまで失態をさらさずにすんだのに。

 だが、あの時の恐怖はどうしようもなかった。逃げ出さずにはいられなかったのだ。


(……これ以上、問題を起こさないようにしなくちゃ)


 今日は、儀式が終わるまで会場の隅に控えるように言われている。碧音は、会場内でも一番目立たない場所に、そっと身を滑り込ませた。

 やがて、広間の入口から、神女達が白い衣の裾をひらひらとさせながらやってきた。

 彼女達は神殿で暮らし、星を読んで未来を占ったり、神の声を告げたりする役目を負っている。儀式を執り行うのも彼女達の仕事だ。

 由緒正しい装束に身を包んだ神女達は、神聖な気配を漂わせながら歩を進めていく。

 室内にいる人々が低く頭を垂れる中、碧音も他の者にならって頭を下げる。

 いつもなら呪符が扱えないと見下され、雑務ばかり押し付けられる碧音が、この場に同席するのは許されない。だが、今日は儀式の手伝いをするため例外だ。

 神女が勢揃いし、位置につく。彼女達が、低い声で祝詞を唱え始めると、部屋の空気が一気に神聖さを増したように感じられた。


(すごい……こんな大がかりな儀式、初めて見る)


 祭壇に供えられた鏡は磨き上げられ、その前で舞を奉納する神女達の姿をちらちらと映し出す。神女達の持つ鈴が、しゃらしゃらと音を立てた。

 その時、神女の一人が刀を高々と掲げ、もう一人の神女が鏡をゆっくりと照らすようにして傾けた。

 すると、刀と鏡の間で反射した光がふわりと宙を舞い、まるで空間を切り裂くかのように室内を照らしていく。


「……あ」


 瞬間、碧音の胸に鋭い衝撃が走った。

 息を呑むより先に、意識がじわりと滲むような感覚に襲われ、視界が歪んで見える。鏡と刀の輝きがやけに眩しく、耳元で鈴の音が重なり合って反響するようだ。


(なに、これ……!)


 こんな感覚、知らない。

 足元が崩れるようなめまいを覚えて目を閉じると、瞼の裏に薄い光の筋が何本も走っているかのようにちらつく。

 体内の霊力が、暴れまわっているような気がして、制御できない。


「……大丈夫?」


 隣に控えていた娘が小さく声をかけてくるが、碧音は何とか首を縦に動かした。

 祝詞が最高潮に達すると、神具の刀がゆっくりと祭壇の上段へ置かれ、鏡の表面もまた静けさを取り戻した。シャラシャラと鳴っていた鈴も音を止め、室内は静けさを取り戻す。

 その刹那、碧音のめまいも嘘のようにおさまった。


(……なんだったの、この感覚は)


 今日は、朝から今まで考えてもみなかったことばかり、遭遇している気がする。

 やがて手伝いを言いつけられた者達が、神具を片付け始める。

 碧音も意識を立て直そうと深呼吸をして、最後の片付けに参加した。

 もう二度と、ここに来ることはないだろうと思いながら。




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