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第6話 前世――姉の噂

 玉津国たまつこくの片隅──小さな村のさらに外れにある、痩せた土地。


 周囲を取り巻くのはひび割れた畑と、藁葺き屋根の家。風が吹くたびに土埃が舞い上がり、空は白く霞んで見える。


 ――ああ、これも夢だ。


 碧音あおねは、不意にそう悟る。成人の儀の最中見たのと同じような夢。


 これは、碧音が前世で暮らしていた場所だ。前世の長い夢を見ていると、夢の中で悟る。


 前世の碧音が生まれ育ったのは、貧しい農家。


 両親と姉の四人家族。幼い頃から両親を手伝い、畑の世話をしてきて日々なんとか腹を満たしてきた。


 鍬を握り、畑を耕す。川からくみ上げてきた水で土を湿らせ、作物を育てようと努力を続けるそんな生活だ。このところ雨が降らず、畑の作物はぐったりとしていた。


 幸いなことに、川の上流の方では雨の降る日もあるらしい。流れている川の水量は、例年と大差なく豊かな水量を保っている。


(……あの噂、本当なのかな)


 枯れかけの青菜を収穫する手を止め、空を見上げて考える。


『姉』の綾女あやめは、このあたりを治めている豪族の大須賀家に、厨の下働きとして勤めに出ている。 住み込みで働いている綾女は、ここで両親の手伝いをしているよりはいい生活をしているはずだ。


 だが、大須賀の館で、盗みがあったらしいという噂が、ここ数日の間村に広まっている。その盗みを働いたのが綾女だとも。


(姉さんが、そんなことするはずないのに……)


 とはいえ、碧音にできることはそう多くはない。まずは、姉に話を聞かなければ。


 大急ぎで畑の仕事を終え、大須賀の館へ行ってくると両親に告げる。


「あんた、本当に行くの……?」


「だって、母さんだって心配でしょう?」


「それは、そうだけれど……」


 碧音の言葉に、母は眉間に皺を寄せる。


「大丈夫。話を聞くだけだから」


「頼みたかったこともあるんだが……夕方には戻ってきなさい」


「うん、父さん。話を聞いたらすぐに戻ってくる。夕餉に間に合うように」


 父も心配らしいが、碧音と一緒に話を聞きに行くつもりはないようだ。本当は、他にも碧音にやらせたい仕事もあるようだが、まずは噂の真偽を確認する方が先だとも思ったようだ。


(大須賀様を怒らせるのを、心配しているんだろうな)


 陽を遮る物のない農道を進みながら、碧音は額の汗を拭う。


 碧音一人を行かせるのは、父も一緒に行くより碧音だけの方が、偉い人の怒りを買わないで済むだろうという計算もあるのだろう。だが、それでいいと碧音は思う。


 まだ成人を迎えていない碧音ならば、若気の至りで大目に見てもらえる可能性があるだろうから。


 姉が大須賀の館で働くようになってから、何度か会いに行った。厨の下働きだから、裏口で誰かに頼めば呼んでもらえるはず。


 大須賀の館は、いつ見ても威容を誇っているように碧音には感じられた。


 館の周囲を囲う塀の向こう側に見えるのは、檜皮葺の屋根を持ち、木材を複雑な形に組み合わせた大きな建物。碧音が暮らしている家とはまったく違う堅固な造り。いつ来ても、緊張で背筋が伸びてしまう。


 表門は、厳重に警戒されているが、使用人達が行き来している裏門はそれほどでもない。ぐるりと塀に沿って歩き、裏門に来たところではっと息をついた。


 運のいいことに、今日の門番は顔見知りだ。


「……姉さんはいますか?」


「碧音か。今日は帰った方がいいぞ。姉の話を聞いていないのか?」


 門番は、碧音に気遣うような目を向けた。父親と同年代の彼からしたら、碧音が心配でならないらしい。


「でも、それはただの噂でしょう? 姉さんがそんなことするはずないもの」


「いや、事実だ。なんの証拠もないのに、牢に入れられるはずないだろ。ほら、屋敷の人に見つかると面倒なことになるから、早く帰れ」


「ちょっと待って! 姉さんに、会わせて! 姉さんにちゃんと話を聞かないと」


「駄目だ駄目だ。お前を通したら、俺まで叱られることになってしまう」


 なんとか説得しようとしているうちに、空が橙色に染まり始めた。


(このまま追い返されたら、姉さんは……どうなるの?)


 地面を見つめているうちに、涙が零れそうになる。顔なじみの門番は、気の毒そうな顔は見せるけれども、中に入れてくれそうな気配はまったくなかった。


「俺だって、お前が可哀そうだとは思う。だが、本当に駄目なんだ――ほら、暗くなる前に帰れ」


「……でも」


 それきり、彼は碧音から視線をそらしてしまった。これ以上、問答を続けるつもりはないらしい。


 なすすべもなく立ち尽くしていると、碧音の前に若い女性が姿を見せた。身に着けている上質の衣からすると、館で働いている女性のようだ。


「あなた、碧音さんね。こちらにいらっしゃい」


 門番は渋い顔をしつつも、彼女にそう言われてしまえば止めることはできないらしい。しぶしぶと、碧音を通してくれた。



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