リディの一言で、空気が明らかに変わった。
その後、俺たちは足元と壁面に注意を向けながら、慎重に進み始める。
誰かがうっかり声を上げることもなく、サーミャは弓を手に持ち、ヘレンは剣の柄に手をかけたまま歩いている。
ルーシーでさえもクルルに甘えるのをやめ、鼻をひくつかせながら前を見据えていた。
我がエイゾウ工房最大の警戒態勢、と言って良い状態だ。
だがしかし、
「……なんも痕跡がねえな」
ヘレンが低く呟く。
洞窟の岩肌にも、地面にも、何かが通った跡は見当たらない。擦れたような跡もなければ、魔力の残滓のようなものもないらしい。
マリベルが放つ光に照らされる景色は、どこまでもただの「静かな洞窟」でしかなかった。
時間の感覚も曖昧になるほどに、ただ黙々と進み続ける。鉱石の淡い光も、気づけばずいぶん少なくなっていた。代わりにマリベルがいなければ、ここがどれほど暗いかもわからない。
松明を使っていたら、かなり早く撤退することになっていたかも知れない。
「これ、実は何もいないってことなのでは……?」
進み続けるうち、ボソリと不安げな声を漏らしたのはリケだった。無理もない。あまりにも気配がなさすぎる。
「でも、だからって戻るのもね……」
ディアナが小声で返す。確かに、このまま何の手がかりも得られずに帰れば、何が起きているのか永遠に分からないままだ。
だが、全員の歩みが、少しずつ鈍ってきていたのも事実だった。言葉にはせずとも、不安が重くのしかかり、脚に絡みつくように動きを鈍らせている。
……こんなときこそ、だな。
「よし! 昼飯にするか!」
俺はわざと明るく声を張った。できるだけ、いつもの調子で。
魔物が本当にいるのだとしても、今の俺たちにはなんとかできるだけの力がある……はずだ。
グゥと誰かのお腹が俺の言葉に賛成の返事をし、静かな洞窟に小さく笑い声が響く。
それじゃあと、昼飯の準備をしようとした、そのときだった。
「……あれを見てください」
リディが小さな声で前方を指さした。俺たちは準備の手を止め、一斉に彼女の指先を追う。
それは、少し先の壁面だった。
一見すると、周囲と同じように灰色がかった岩肌にしか見えないが、そこには不自然に、何かで削られたような跡があった。
直線的で、しかし不揃い。人の手で削ったにしては乱雑で、道具の痕跡もない。かといって自然の侵食とも思えない。
爪か牙によって抉られたと言われるのが一番しっくりくる。
「あれは……」
俺が声を漏らすと、そこをじいっと見ていたジゼルさんが浮かびながら顔をしかめた。
「あれは魔物の痕跡かもしれません。少なくとも、普通の獣や自然現象では、あんな削れ方はしないはずです」
「おっと、マジか……」
ヘレンが剣の鞘を少しだけ引き抜く。その金属の擦れる音が、やけに大きく聞こえた。
――そして、そのときだった。
洞窟の奥から、低く唸るような、しかし確かに「咆哮」としか呼べない音が響いた。
空気が一瞬で張り詰める。マリベルの放つ光が揺れ、壁面がわずかに震えたように見えた。