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〝巣くうもの〟を追う

 「逃げるか……?」


 壁際を進むワームを見つつ、ヘレンが少しだけ荒くなった息を整えながら呟いた。手にした剣は下ろさず、もし飛びかかってきても対応できるようにしている。

 俺も〝薄氷〟の切っ先をワームに向けて警戒を続ける。サーミャが矢を向けているが、先ほど効果が薄かったこともあってか、放つことはない。


 ワームは完全に背を向けることはなく、俺たちのほうに頭(だと思われる部分)を向けつつ、じりじりと後退していた。割れ目のような狭い裂け目に、巨体を押し込むようにしてゆっくりと姿を消そうとしている。


 追撃しようかと思ったが、あまり有効打を与えられなかった。この状態で追ってもいたずらにこちらの被害を増やすだけかも知れない。


「追えるか?」


 俺が問いかけると、サーミャが頷いた。


「痕は残ってる。見逃すことはないさ」


 壁に残る傷跡は目に見えて分かるほどで、いかにも「ここを通ったぞ」と言わんばかりだった。であれば、ここで追撃するよりも、

 リディが一歩前に出て、洞窟の空気を読むように目を細める。


「……魔力の流れが、さっきより不安定になってます。普段はあっちの方にいるんじゃないでしょうか」

「よし、進むか。慎重にな」


 警戒をしつつ、リケに記録をして貰いながらゆっくりと歩みを進める。

 途中も壁の傷跡を追うことで迷うことはない。この森の動物たちは基本的に魔力が濃すぎると近寄らないし、それでも近寄ってくるようなのも、あの異容を見れば引き返していたに違いない。


 そんな中、積極的に攻撃してくる相手に出会ってしまったら、どうするかと言えばまずは逃げるに決まってるよな。

 そんなことを思った瞬間だった。

 唐突に音が消えた。微かな風の通り抜ける音、遠くでしずくがぽたりと落ちる、思ったよりも大きな音、そして、俺たちの足音すらも一切が吸い込まれたように無音になる。


「音が……?」


 不思議と声だけは聞こえるらしい。ディアナが呟いてから不安そうに周囲を見回す。彼女の足元でルーシーが耳を伏せ、わずかに後退する。ハヤテがそれを庇うように前へ出た。クルルが「クルルル……」と不安げに鳴き、俺の背中を鼻で軽く小突く。


「これは……ただの洞窟じゃあないな」


 俺は壁際に近づき、よく見ればいつの間にか様子が変わっていた岩肌にそっと手を当てた。ごつごつした手触りを想像していたが、指先が感じたのは想像と違う、妙に滑らかな質感だった。

 石灰石主体だと水で磨かれ表面が滑らかに見えるとは聞いたような記憶があるが、この感触はそれとは違うような気がする。


「ねえ、あそこ」


 ディアナが隣で呟きながら、反対側の壁を指差す。そこには直線的な刻み目が走り、一定の幅で続いていた。まるで、誰かが意図して彫った文様のように見える。


 〝世界の真ん中〟と最初に聞いたときは大げさな比喩かと思ったが、もしかすると本当に何かがここにあるのかもしれない。


「進もう。ただし慎重に。マリベル、光を抑えてくれ。聞こえないが、足音にも気をつけよう」

「わかった」


 マリベルが光を絞り、周囲が再び仄暗くなる。俺たちは音の消えた領域へ、足を踏み入れた。


 無音。

 本当に、何一つ響かない。声を出そうとしても、それが喉から漏れたかどうかさえ曖昧になる。自分の呼吸すら、音として認識できなくなる。

 自分の発する音がしない、というのはこんなにも不安になるものだったのか。

 その不安が静かに全身を蝕んでくるが、それを顔に出せば、皆に伝播する。

 だから、俺はあえて前を歩いて。無理にでも、普通に見えるように。

 ……気を張れ。今ここでビビってどうする。


 気がつけば、壁の構造はますます不自然なほど直線的に、そして幾何学的になっていた。円、三角、螺旋――まるで誰かの意図が染みついたかのようなデザインだ。


「気味が悪いけど……確かに、何かがあるわね」


 いつもならどこかふんわりとした柔らかさを感じるアンネの声も、どこか硬さがあるように思える。

 不安げに頭を寄せてくるルーシーの頭を撫でながら、俺はふと、先ほどのワームの動きを思い出した。


 刃が滑った。だが、一瞬だけ、手応えがあった気がする。


 あれが弱点か? それとも、偶然の重なりか?

 どちらにせよ、もう一度出てくるなら、今度こそ、見極める必要がある。

 俺たちはそのまま、静寂の支配する奥へと、さらに一歩踏み込んでいった。

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