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第37話 水没林

 第70層からは、水没林が広がっている。


 水没林は、読んで字の如し。熱帯性の密林に川の水が侵入したことで出来た環境である。

 かつて小高い丘だったと思われる箇所は島となったが、低地は全てが水に浸かってしまっている。


 泥水に浸かった木々が広がるその景色は、一見すると荒廃した風景のようだ。

 山に沈まんとする鋭い光を通さない茶褐色の水は底が見えず、不気味な静けさを漂わせながら木々の根元を包み込む。


「うわっ……夕方なのに蒸し暑いじゃないか」


 彼らを蒸し器の中にいるかのように思わせる、肌に纏わりりつく湿気の不快感。空気は濃密で、まるで肺の中に湿った布を押し込まれたような息苦しさを覚える。

 けれども、この層の過酷なところは暑さだけではなかった。


 深いところで水深が20フィートもあるとされる水没林の泥水には肉食性の魚類がこれでもかと犇めき、泳いで渡るだけでも体力をごっそりと奪われてしまう。


 第70層の騎士団の拠点では一応小舟が売られているのだが、舟を使って渡るとなると空を飛ぶ竜の格好の的となってしまう。

 そのため、冒険者の殆どは過酷な泳ぎを選ぶというのだ。


 ───過酷な地だけど、ゼトロスっていう強力な切り札があるから……そこまで苦労することはないだろうな。


 そう思ったオトゥリアの予想通り、ゼトロスは難なく水没林を走り抜けていた。

 島と島を巡りながら、水面を凍てつかせて氷の道を作りながら進むゼトロス。

 その背の上で、オトゥリアはアルウィンに声をかけた。


「あと少し進めば、拠点に着くはずだよ。とりあえず今は休んで、明日に備えることにしよう」


 オトゥリアは、更に「今日は早く休めそうだね」と続けた。

 迷宮に入る前の計画では、2日目を60層で終わらせる予定だった。けれど昨夜に計画を早めたため、彼らは今日の目標地点を70層へ改めたのだ。


「懸念事項があるとすれば、ゼトロスの魔力の消耗だけど……大丈夫か?」


 心配そうにアルウィンが零すも、ゼトロスは「問題ないぞ!」と返してくれる。


 が、そんな彼らは周りから見たら奇妙なものであったようだ。


「な、何だあいつら?」

「み、みっみみ、水が……凍ってる!?」


 途中で追い越された冒険者らは、水面を凍らせる魔獣に乗って駆けていくという無茶苦茶なオトゥリアの行動を見てあんぐりと口を開けているのだった。

 中には。


「あの魔獣に乗ってる人、来る時に見たぞ!

 鈴蘭騎士のオトゥリア様と、遊撃隊長のレオン様だ!!今度こそ少数精鋭でこの迷宮の最終層に挑むらしいなァ!

 丁度いいからな、俺達もこの氷を使わせてもらおうぜ!」


 そう言って、ゼトロスが残した氷の道の恩恵にあやかる輩もいた。


「あのおっさん、確かオレらが迷宮に入った時にいた人だよな!」


 後ろを振り返るアルウィン。ゼトロスの足は速く、すぐに冒険者は豆粒ほどの大きさとなってしまった。

 彼の後ろのオトゥリアはそんな光景を見てくすくすと笑っている。




 騎士団の拠点は大きな島の半分を10フィートほどの高さの木柵で囲われた区画の中に作られていた。

 その柵の中から幾つかのココヤシが顔を覗かせている。


 ゼトロスに乗った彼らが拠点の門に到着すると、門前で待っていたのは十名ほどの騎士であった。


「おいおい……こんなに大勢の王国騎士に待って貰うってどんな神対応だよ」


 アルウィンは小声でそう言うと、オトゥリアは「この層は特別だからね」と返す。


 そんな二人の会話を他所に、代表らしい男性が前に出てくると口を開いた。


「オトゥリア様、アルウィン殿、そしてゼトロス殿。お待ちしておりました。準備は全て滞りなく済んでおります」


 ───!?


 恭しく言葉を発した王国騎士の振る舞いにアルウィンは息を呑んだ。


 それはなぜか。


 その騎士は、魔獣であるゼトロスをまるで人と対等であるかのように接していたからだ。それは、人間至上主義で魔物の殲滅を究極の目的とする南光十字教では禁忌の行為である。


 ───彼らよりオトゥリアの方が立場が高そうだし……不用意にゼトロスの存在を下げられないってことか。


 彼はそう結論付けた。





 騎士団の面々が案内した場所は、第50層のような宿ではなかった。先まで広がっているのは規則的に配置された住居である。


 その中でも格別大きく二階建てのものに彼らはゼトロスと共に案内された。


「前回の大規模攻略のために建てられた特別な施設を……貸して貰えたんだよ!」


 キラキラと瞳を輝かせて、オトゥリアはそう言った。


「ゼトロス殿も入室して構いませんよ」と騎士が告げる。


「50層でゼトロス殿にあまり良い待遇を行えなかったと聞いておりますから……ごゆっくりなさいませ」


「確かに警戒されてたけど……それは信仰の問題だと思うし。それに……元々40層で泊まる予定だったから、50層で待つ準備が行えなくても仕方がないよ」


 そうオトゥリアは返すのだった。


 1階は炊事場や風呂場の他に会議室や錬金部屋やベランダなども設置されていた。2階はベッドルームが4部屋に簡易的なシャワールームまで造られていた。

  風呂もシャワールームも薪を燃やしてお湯を作るものでなく、魔法陣が刻印された魔石に魔力を流して水やお湯を生成するという仕様だ。


 ひとしきり綺麗な設備を見て、興奮が収まらないアルウィンとオトゥリア。彼女は頬を上気させ提案する。


「それじゃあ、2日の間走ってくれたゼトロスにはお疲れ様ってことでサービスしよ!!!」


 オトゥリアの声にアルウィンはすぐさま頷き、水バケツと備品として置いてあったブラシを手にしてゼトロスのもとへと急いだのだった。



 ………………

 …………

 ……




 夜闇は既に当たりを覆い尽くしていた。

 風呂を終わらせたアルウィンとオトゥリアは2人きり。

 ゼトロスはベランダで寝ることにし、もう睡眠中のようである。


「アルウィン、シャワールームとかお風呂とかの使い方は解る?」


「このシャワールームも風呂も、ジルヴェスタのおじさんの所で借りたから大丈夫だけど……ただの平民のオレが使っていいのか?と思う気持ちはあるよ」


 アルウィンはそう返す。


 このような設備に使われる魔石自体が迷宮の最深部などの魔素の濃い場所でしか生成されない貴重なものだ。

 更に、それに刻印を施すことはかなりの腕の職人でないと不可能なため、このような設備を持てるのは王侯貴族や聖職者や騎士団のトップ層、豪商など限られているのだ。


 辺境伯であるジルヴェスタ・ゴットフリードは嘗て彼自身が攻略した迷宮で手に入れた魔石を利用して設備を整えていた。そのため、あまり労せず設備を手に入れることが出来たが、本来の彼の収入ならば10年程度節制しないと購入出来ないほどのものである。


「オレみたいな田舎の男が、こんな上級層御用達の設備の中に入ってしまうと……場違い感が凄いんだ」


 身分の差に尻込みするアルウィンだったが、オトゥリアはそんなことないよ!と返す。


「アルウィンはただの平民のまま一生を終わらせるわけないんだから、いずれ毎日使う日が来るんじゃない?」


「買いかぶりすぎだと思うけどな」


 窓の外を見るアルウィン。水没林は月に照らされて、水面がゆらゆらと輝いていた。


「アルウィンの実力は───もう、強者の中の強者の域にあるよ。王国騎士団だって……剣舞祭で絶対に入れるレベルだと思うし。それに───ずっと負けてたはずの私と互角の戦いをしたんだよ!?」


 やや前のめりになって、オトゥリアはそう告げる。

 彼女はやや早口になっていた。自己評価の低いアルウィンに、自信を持って欲しいのだ。


 けれど、オトゥリアの評価にアルウィンはこう返す。


「そんなことは無いだろ。

 だって一昨日のアレは、〝割天かってん〟を振るオトゥリアの剣に迷いが見えてたんだから」


 彼は、真っ直ぐにオトゥリアを見つめていた。


「えっ、そんなこと……なかったと思うんだけど」


 予想していなかった指摘を受けて、オトゥリアは目を丸くする。けれど、アルウィンは続けた。


「剣を振るのを躊躇っていた訳じゃない。シュネル流を続けたオレに対しての応えが〝割天かってん〟でいいのか迷ったんじゃないか?

 オレがオトゥリアの懐に飛び込んで一撃を入れられたのは、お前の心にそれがあったからだと思う」


 その言葉に納得出来るところがあったのか。オトゥリアは口を開いた。


「そう言われれば……確かにそうかも。アルウィンに打ち込んだ後に……満足出来てなかったから」


「なら、もう一度、迷いのないお前の剣を見せてくれよオトゥリア。全てが終わったあとで……オレはお前に勝ってみせる」


 最後は昔、毎日のように言っていたセリフを混ぜた彼はオトゥリアを見た。

 彼女はその言葉に満面の笑みを浮かべて───ぎゅっと抱き締めてくれる。


「ありがとう。全部が終わったらまたやろう。沢山の観客を呼んで、ミルヒシュトラーセ様にも、沢山の人にもアルウィンの凄さを知ってもらいたい」


 アルウィンの鼻腔に漂う仄かな香り。

 鈴蘭の匂いだ。


「こちらこそありがとうな、オトゥリア」


 アルウィンはオトゥリアのつむじの上に、そっと手を置いた。


「ううん。誰かの話題に上がるのは今までは私ばっかりだったけど、アルウィンも誰かに語られて欲しい。私たちはなかなか会えないけど、並べるところが欲しいんだよ」


「オトゥリアも……そう思ってくれるんだな」


「当たり前だよ、アルウィン」


「じゃあ、頑張るしかないよな」


 その言葉を受け取ったオトゥリアは暫く沈黙を続けたが、やがて頬を紅潮させながら告げたのである。


「アルウィン……ずっと応援してる。大好きな人と並べることの嬉しさを感じたいから」


 と。

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