アリアドネ・ワラニア。
その名前を聞いた事のない冒険者は余程他人に興味が無い者なのだろう。
彼女は昨年、若干14にして、大陸南東部にある国の王都を曇天の下に隠し、二ヶ月にも及ぶ嵐を引き起こした古龍、嵐碧龍ベルキュリルを単独で討伐せしめた女傑である。
扱える魔法は、魔法使いの中でも数千人に一人と言われる基礎属性の全属性。
そのような天才でも、魔法攻撃の一切を無効化する
再び彼女が自身の足で立った時、彼女は助けてくれたアルウィンの眼を深く観察していた。
息を吸うのも忘れて。
アルウィンはその視線に気付いた瞬間、血の気が引く感覚を感じていた。
───何だ、オレの眼だけずっと見ていやがって。
こっちは高名な冒険者に対峙してるってだけで緊張するのに……
彼女の名声と実力を知らぬ冒険者はこの大陸南部にはいない。
しかし、なぜ自分のような存在が彼女の興味を引いたのかまったく見当がつかないのだ。
心臓が胸の奥で乱れた鼓動を打つ。
───何かの間違いだろうって思いたいんだけど……冒険者アリアドネの視線は間違いなくオレに向けられている。オトゥリアになんて興味がなさそうに、だ。
何故かアリアドネは次第に琥珀色の瞳を潤わせていった。溢れ出る感情を我慢している口元が大きく崩れかかっている。
「絶体絶命で怖かったんだね。大丈夫だよ」
アリアドネを気遣うようなオトゥリアの声。
「オトゥリア……!?」
オトゥリアが子供扱いするその姿に、アルウィンは酷く困惑する。
龍を討伐した冒険者が、年相応の子供のように泣き崩れようとしているのだ。
「な……何だよ」
声が喉から漏れるが、それ以上の言葉が続かない。
足は重く、その場から一歩も動けない。
───オレを見詰めてたら……今度は泣き出そうとしてる……?何が起こってるんだ!?
涙を我慢するアリアドネの姿を見てしまうと、古龍討伐という栄誉など完全に忘れて、いたいけな少女だと勘違いしてしまったオトゥリア。
優しく抱きとめて、「大丈夫だからね」とだけ繰り返している。
けれど、アリアドネは涙をグッと堪えてオトゥリアの救いの手をやんわりと拒否した。
そして堂々と、
「問題ないわ。大丈夫」
とだけ言ってのけたのだ。
「さっきは見苦しいものを見せたわね。アルウィン、オトゥリア。ここまで連れて来てくれて助かったわ」
凛とした表情で、アリアドネはそう告げる。
その姿は、先程までの弱々しさとはまったく異なった、〝龍殺し〟の二つ名に恥じないものであった。
アリアドネはまたも、アルウィンをじっと見つめていた。
アルウィンの背中にはゾクゾクと、愛撫されると同時にムカデが這いずり回っているかのような、快感と不快感の連続の波が押し寄せる。
───冒険者アリアドネはいわゆる美人顔ってやつで、可愛い系のオトゥリアとは異うタイプの顔だ。
だけど、振る舞いは何故か大人びていて、年不相応な部分に強烈な違和感を覚えるんだ。
まるで、
これもやっぱり……
そんなアルウィンの思案など気にも留めなかったオトゥリアはアリアドネに笑顔を見せる。
「いやいや、無理しないで大丈夫だよ。
辛かったらいつでも私たちが助けになるからね」
太陽の如き光を放つ、オトゥリアの笑った顔。
その光に朱の色が混ざり、やがてそれが段々と濃くなっていく。
「それに、もし良ければなんだけど……アリアドネさん。
私たちは……この迷宮の攻略を命じられているんだけど、一緒にこの最終層まで攻略しに行かない?
あなたの強さを私は欲しい。魔法を使えるアリアドネさんの力が欲しいんだ。
力になってくれませんか……!」
彼女は、慰めたすぐ後にアリアドネを勧誘していたのだ。
「オトゥリア……!?いきなり何して……!?
あっ……そうか」
高い攻撃魔法の威力を持っていたゼトロスはここから先の地理的特徴ゆえにもう居ない。
迷宮層の後はやはり天井の低い洞窟層が続き、更にその奥は煮えたぎるマグマの織り成す灼熱の地だ。
───〝龍殺し〟の異名を持つ魔法使いを、ゼトロスの穴埋めとしては丁度いいとでも思ったんだな。あの時は寝てたから……知らないんだ。
アルウィンはそう理解し、魔力感知を行いながら、暫くの間二人のやり取りを傍観することにした。
見つめるオトゥリアの潤んだ目の魅力にあてられたのか、アリアドネは暫くは息をするのも忘れている。
けれどもやがて、「力になるわよ」と告げたのだった。
「さんは要らないわ。呼び捨てでいい。
あたしも冒険者として……未踏破迷宮の攻略なんて初めてよ。胸が踊るし悪くないわね。あんた達を絶対に死なせないから後衛なら任せなさい」
そう言いながら、やや得意げな顔でもったいぶった彼女は右手を開いて見せる。
そこには、アルウィンには到底真似出来ない程に濃密な魔力で練り上げられた小さな紅炎が形成されていた。
「凄い魔力量……!!」
その美しさに惚れたオトゥリアが感嘆の気持ちを即座に漏らす。
「ありがとう。一応、全属性の魔法を使えるわ」
「ええっ!凄いねそれは!」
オトゥリアの感嘆の声に得意気になったのか、アリアドネは紅炎をきらきらと輝く霜に変え、そして水球に、青白い電撃を放出する珠に……と掌から様々な属性の魔力を放出して見せてくれる。
その光景を見て、遂に。
「綺麗だな。
高位冒険者のアリアドネ・ワラニアに助力を貰えるなんて、本当ならば有り難い話だ。
だけどこれだけは知りたいんだが、いいか?」
きょとんとするオトゥリアを他所に、アルウィンは酷く真剣な顔でアリアドネに向き直る。
「えぇ。何かしら」
かつかつと、アルウィンの靴の音が微かに壁に反響した。
「〝龍殺し〟のアリアドネには未来を予知する能力があると聞いたことがある。
オレらに会えた理由でもある無色の
あれは本当に偶然の出来事だったのか?
それとも、わざとピンチを演出してたのか?
未来予知でオレらに会えることを知っていたからこそ、態々囲まれて助けられた───ってことも考えてしまうんだが、どうなんだ?」
息を呑む音はオトゥリアのものだった。
アリアドネの視線が一度だけ不自然に横へそれる。
すぐにアルウィンをまっすぐに見つめ返したが、一瞬の出来事だったため彼は気が付かななった。
珊瑚のような色の唇が、僅かに震える。
「未来予知の力は本物よ。
今後何かが起こるということは確信していたわ。でも、それは『落とし穴に落ちれば記憶が蘇る』ということを未来予知で感じ取ったからよ。
あたしは74層の落とし穴にわざと落ちた。未来予知の力はそこまでよ。そうしたら75層に落ちて、二体の無色の
「そんな事があったんだね……」と、同情するような目を向けるオトゥリア。けれど、アルウィンは冷たい眼のまま更に言葉を発する。
「記憶に関してはどうでもいい。
質問を変えるぞ、冒険者アリアドネ。
お前は……オレらに明確な意志を持って接触したんじゃないか!?」
アルウィンは何時でも剣を抜けるように、塚に手をかけていた。
「オレはな、一昨日の夜に、謎の力によって瀕死になった冒険者を見たんだ。
オトゥリアは……この国の第一王子に命を狙われている。お前みたいな強いのが、王子に雇われているかもしれない」
そのアルウィンの言葉に、アリアドネの顔が影に隠れた。