それから扉はとりあえず開かれたままになった。そしてひとまずは出入り自由になった。
ひとまず、である。この建物とその周囲以外は身動きが取れないのだから、結局はまだ不自由の身と言えよう。
この建物というのが、案外大きくはない。
三階建てなのだが、どちらかというと縦に長い、という印象を受ける。そして意外に古い。
赤茶の煉瓦で四角く組まれ、そこにツタが絡まっている。屋根は枝垂桜様式であるから、まあ古いと言ってもそれこそ何百年と昔という訳ではないことはシラにも判る。
それでも百年以上は経っているわ。
ぐるりとこの建物の回りを一周した時、シラはそう思った。
ここの主人は…… シラは彼女が皇太后ということには全く気付かないのだが、よく外出している。
と言うよりは、ここが彼女の邸宅ではないらしい。彼女はここへ通っているようなのである。時々馬車で出入りする所をシラは見かけた。そして夜ここに居る気配はない。
藍はどうやらここに住まわされているようだった。だがシラが手を出した翌日から彼女は姿を消した。代わりにやってきたのが、もう少し大柄で、もう少し歳かさで、もう少し気の強そうな少女である。
「
やはり黒髪黒目の彼女はそう言って頭を下げた。長い髪を後ろで一つまとめ、三つ編みにしている。ずいぶんと太くて固い髪らしく、親指と人差し指で輪を作っても余りそうだった。
ああどうやらこれは無理だな。そう初対面でシラは感じた。だがどうやら話相手くらいにはなれるらしい。融通が利く。
そして相変わらずここが何処かなどということが全く判らない。全く街並みが見えない森があるくらいだから、よほど都市の外れにあるのか、それともそんな広大な敷地を持っているのか。
何せシラは皇宮を訪れたことがない。その中の後宮ならなおさらである。
つまりはここは、後宮の一角である。本宮から道は色々に分かれて、一つ一つの館の周りには森がある。森は自然の壁となり、館の主を外敵から多少なりとも守ることになる。
ちなみにこのシラが捕らえられている館は、「芙蓉」館と言う。今の季節ではその姿を見ることはできないが、もう少し経つと、芙蓉の類の花々が森に入り込むまでの庭に薄黄や薄赤の花がふわふわと乱れ咲く。
十ある後宮の館のうち、七つまでは現在の皇帝の夫人方が所有している。
ただしそのうちの四つは、その主を失って久しい。それは主が亡くなった者もあるし、また副帝都の実家に戻ってしまった者もいる。
そして残りの全てをカラシュが使用していた。
彼女が住むのは、この後宮にやってきて以来ずっと「楓」館である。かつては現在の皇帝も、そこで育ったのである。
そして残りの二つ、「芙蓉」と「梅」は、専らサロンとして使われている。常に何かしらの客人を迎える用意ができているのだ。そのために普段より客人専用の使用人が詰めている。
……まあシラはその知識はある。後宮関係は、少女達の話に上るのだ。そしてシラはナギほど変人の仮面をかぶってはいなかったから、そういった噂話にも結構耳を傾けていた。
だがどれだけ後宮についての知識を持っていたところで、ここが後宮であると気付かないうちは、何の意味もないのである。
*
夜になって、紅が夕食を運んできた時に、訊ねてみた。
「市内通信? ああ駄目です。できません」
彼女ははっきりとそう言った。
「おかしいわね。この館には通信機がないというの?」
「無い訳ではありません。しかし使わせる訳にはいかないと申しておるのです」
「どうして」
「
主さま、と紅はカラシュのことを呼ぶ。
おそらくは皇太后さま、と呼びたいのだろうが、それを口にしてしまうと彼女の正体が判ってしまうので、まだこの時点では藍も紅も口止めされていた。
「でも通信機はあるんでしょ」
「あっても、線が使えないようにしてありますから、探し当てても無駄でしょう」
全く、とシラは怒り半分にため息をついた。
「あまり騒ぎを起こさないで頂きたいのですが」
紅は笑わない人だったが、それに輪をかけた無表情で、さらりと言った。
シラはその無表情が妙に気に食わない。何を言っても何をしても、糠に釘押し、のれんに腕押し状態なのである。そういうのは好きではない。
そこで少し怒らせるようなことを口に出してみようと思う。あいにく、さほど面識のない相手に喧嘩を売るのは相棒の専売特許ではないのだ。
「それはあなたの希望? それとも頼み? 頼みなら嫌。希望ならあたしには関係ないわ。だいたいあたしが何したって言うのよ。そのへんも全く判らないくせに大人しくしてろなんて冗談じゃない!」
「おっしゃることは非常によく判りますが、我々はそれが仕事ですので」
馬耳東風。きわめて冷静に、彼女は答えた。
「ふうん我々」
「ええ」
なるほどね。少しばかり自分の琴線に触れる言葉に気付く。何気ないが、それは日常茶飯事で使われている言葉のようだ。
シラは彼女達がある種の団体だということに気付いた。ということは、家の周りをうろうろしている連中もその一部かもしれない。あの可愛い藍という娘もそうだろう。
紅は口は固いだろう、とシラは思う。特に何らかの集団だというのなら。
だが、何処かでぽろりと何やらもらすかもしれない。
「……じゃあ仕方ないわね」
非常に落胆した様子を見せる。
「せめて家の方に無事だということを知らせたいのだけど……」
「ああ、そちらの方には既に連絡済みです。ご心配なく」
「ああそう。それは良かった……」