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第102話 百年程消えずに掛かっている霧

 彼は車窓の外を指す。そこは見渡す限りの農地だった。新しく開墾した場所なのだろうか、ずらりと並ぶ球を巻く野菜が、緑の線を何本も何十本も大地に描いている。

 よほどそこは平地の土地柄なのだろうか、確かに向こう側は見えない。


「ああ。まああんな感じに近いのだが――― だがここいらなら、天気がとてもいい場合には、向こうの山も遠く見ることができるだろう。今日は空気が少し湿っている。ぼんやりとしているから、見えないだけなんだ」


 そう言って、ナギは一度言葉を切る。


「いや、海もそうかもしれないな。私が昔行った時には、いつも煙っていたからな。ただ、究理学の師にそのことを言った時には、こう言われた。『霧がここ百年程、消えずに掛かっているのだ』」

「百年? それって」

「符号が合うだろう? 馬鹿馬鹿しい程に」


 そして彼女はにっこりと笑って、茶をくれないか、と彼に頼んだ。


「これを、入れるのか?」


 ユカリは茶葉と一緒に、途中の街で買った濃度の高いジャムの小瓶を差し出す。そう、と彼女はうなづいた。湯気を立てる茶の中に、彼女は匙に二杯ほど山にしてそれを入れる。こうなると茶ではなく、ジャムを湯で解いているようなものではないか、と彼は思うが、口にはしない。


「私の友達が、こういう風にして呑むのが好きだった」

「それは、シラ嬢ではなくて?」

「違う。もっと昔だ。私が自分の正体を知って、ふらふらとこの馬鹿みたいに強靱な身体を持て余すようにさまよっていた頃さ。何処に行っても、『春の家』は、人手不足だから、下手な借金を作ることさえしなければ、まあ食べるところと眠る所には困らなかった。……友人は、そこで出会った少女だ」

「それは、そこの客? それとも」

「少女が客ということがあるか」


 あっさりと彼女は言い捨てる。そして茶を一口含む。香りがふわり、と辺りに漂った。


「アワフェ・アージェンという、やはり父姓の無い少女だった。薄い青の目の、綺麗な娘だったな」

「そのひとは……今は?」

「綺麗な娘だったよ」


 過去形か、と彼は気付く。今は、居ないのだ。


「運良く、海南の隣の市の大店の主人に買われて引き取られたはいいんだが、そこの若い者と恋に落ちて、逃げようとしたはいいんだが、結局相手に裏切られて、行くところを無くしてとうとう海に身を投げたらしい」

「……それは」

「何が悪かったんだろうな」


 ぽつん、とナギは言う。


「せめて彼女を知る者達で、葬式を出してやりたいと思ったが、結局彼女の遺体は見つからなかった。船を出して、そのまま見えなくなったんだ。船も彼女も、それからずっと見つからない。海の、あの霧の中に沈み込んだままだ」 

「霧の中」

 何となくユカリはぞく、と背筋が震えるのを感じた。


   *


「お客様に、手紙が届いております」


 翌朝、彼らの個室の扉を叩く者が居た。


「手紙?」


 ユカリは怪訝そうにつぶやきながら扉を開けた。確かにそこには、車掌が、手紙を持って立っていた。


「お客様の、イラ・ナギマエナ・ミナミ様に先の駅付で手紙が留められておりました」

「私に?」


 彼女は立ち上がり、車掌の手に握られた封筒を受け取る。鈍いピンクの封筒からは微かに甘い香りがするのに、彼も気づいた。


「ありがとう。取っておいてくださいな」


 ナギはそう言うと、懐から幾枚かの銀貨を取り出した。車掌は黙って一礼すると、それを受け取り、扉を閉めた。


「……よく判ったね、ここに乗っていることが」

「詳しい行程を教えた訳ではないが、あの時、我々は一度帝都中央駅で市内通信を使っただろう? 執事のコレファレスに伝えておいたんだ。……どうやら、上手く伝わったらしいな」


 かさかさ、と薄い紙を彼女は開いていく。甘い香りは、その中からのものだったらしい。


「……なるほどな」


 目を軽く細めて、彼女はざっと手紙を読む。そしてその紙で口を覆うようにして、ふう、とため息をつく。


「やはり急ぎたいところだな」

「そんなに向こうは大変なのか?」

「いや、コレファレスは有能だから、何だかんだと理由をつけて、男爵の葬式を延ばし延ばしにしてくれている。しかし問題はそれだけじゃないからな……」

「シラ嬢に、何か?」

「こっちなら、読んでもいいぞ、ほら」


 彼女は白い紙を幾枚か畳んで、ユカリに差し出した。そしてその間に、淡い黄色の薄い紙の方に目を通す。いや、目を通す、どころではなく、一文字一文字をゆっくりと目で追って楽しんでいるように彼には思えた。

 おそらくそれはシラ嬢からの私信なのだろう、と彼は思った。だったら自分は邪魔をしてはいけない。ユカリはせっかく手渡された執事のコレファレスかららしい手紙を開く。

 だが、それを読む彼の表情は見る間に変わっていった。


「ナギ、これは?」

「ん?」

「ベキダ候が重傷を負われたと……」

「ああ、そんなことも書いてあったな」


 ナギは関心なさそうにつぶやく。彼女にとっては今はそれどころではないらしい。


「しかし」

「ナジャ姫の婚約者だ、と言いたいのだろう?」


 まあ確かにそうだった。ホルシャ・カルキト・ベキタ候は、末の皇女マオファ・ナジャの幼なじみかつ婚約者であることは、よく知られたことだった。実際、この男勝りの皇女が婚約を発表したことだけでも、世間はざわめいたものである。結婚を一生拒むか、とも周囲は心配したものだった。それは彼の敬愛なる皇太后カラシェイナにしても同様である。


「しかしなかなかその男は度胸があるな。彼女を妻にしようなどと」


 ナギは手紙を読み終えたのか、顔を上げて、さらりと言う。


「あなただったらどうだ? ああいう方は、好きか?」

「いや……」


 つい口に出してしまって、はっとする。皇女を好きではないなんて、そんな。そしてナギはそんな彼を見てくすくす、と笑う。仕方ないな、と彼は自分に対して内心つぶやく。そう思うようになってしまったのだから仕方がない。

 いやそうではない。ずっと、思うことはあったのだ。ただ、自分の中で、そう思うことをいけない、と思っていただけなのだ。

 思うことは自由なのに。


「もっと可愛らしい、大人しい女の子の方が好きか?」

「いや、俺は」


 ふっと、幼なじみの姿が頭をよぎる。ここのところ立て続けに自分のそれまでの価値観をひっくり返される様なことが起きていたので、つい思い出さずにも居たが。


「そういう女友達の一人も居ないか?」

「幼なじみなら。でもそういう関係ではないな」

「ふうん? だがあなたは背も高いし、見かけも整っているし、なかなか端から見たら格好いい部類だろうから、寄ってくる女も居るだろうに?」


 彼は首を横に振る。


「居るのかもしれないな。だけど俺には、判らないよ」

「見えてないんだな」


 彼女はずばりと言い切る。


「あの方しか見えてないんだろう?」

「……かも、しれない」


 おや、と彼女は目を大きく広げた。


「やけに素直だな」

「隠したところで、あなたは俺の本心をどんどん言わせようとするだろう? だったら、隠すのも馬鹿らしくなった」

「ふうん。それで、どうだ?」

「何が?」

「気分」


 ナギの指は、まっすぐ彼の胸を指していた。悪くない、と思う。だが、それを素直に認めるのはややしゃくに障った。


「まあまあだね」

「意地っ張り」


 彼女はくすくす、と笑った。

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