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第5話 異世界ハルヴァス

 後楽園での襲撃事件から一時間後、現場はけたたましい救急車のサイレンに包まれていた。意識不明の負傷者が次々と搬送され、死亡者の遺体が静かに回収されていく。この「後楽園の悲劇」は瞬く間に全国に広まり、残された証拠映像から、異世界からの侵略者「悪鬼」の仕業であることが判明していた。不安が人々の間に広がるのも当然で、後楽園周辺には野次馬が群がり、ざわめきが途切れることはなかった。


「まさか後楽園内でこんな事件が起きるなんて……異世界って本当にあったとはな……」

「うん。俺、配信で見たな。噂じゃ他の国にも向かってるらしいけど」

「マジかよ……」


 野次馬たちの間で飛び交う悪鬼の噂は、他の国への進攻を示唆していた。この事件を受け、各国は侵略者への対策を急ぎ、一部は戦争を中断して自国の防衛に専念し始めた。悪鬼による地球侵略が、時間の問題に思えてならなかった。


 ※


 一方、ハルヴァスのジュライ平原を歩く零夜たちは、異世界らしい景色に目を奪われていた。見慣れない草木や遠くの山々が広がり、倫子と日和は興奮した様子でスマホのカメラを手にシャッターを切り続けている。


(すっかり異世界にハマってるな……まあ、八犬士として転移されたんだから当然と言えるし、この珠の力が無かったら、今の俺たちはいなかったかもな……)


 零夜は内心で苦笑しつつ、倫子と日和の無邪気な姿を見つめた。彼の胸中には、複雑な感情が渦巻いている。

 地球での生活――特にプロレスへの情熱が、彼のアイデンティティを形作ってきた。しかし、悪鬼の襲撃によってその全てが奪われ、今は異世界で新たな役割を背負うことになった。珠付きのバングルが放つ微かな光を手に感じながら、零夜は自分たちが選ばれた意味を考えずにはいられなかった。プロレスのリングで培った闘志が、今度は悪鬼との戦いに向けられているのだ。

 そんな彼の思索を遮るように、アイリンがふと耳をピクリと動かした。倫子と日和のスマホに目をやり、何かを思い出したらしい。


「ハルヴァスはファンタジー世界でモンスターも多いけど、最先端技術が発達してるからスマホくらい使えるわ。バカにしてたわけじゃないでしょうね?」

「へ!? ここでもスマホが使えるの?」


 アイリンの言葉に零夜たちは目を丸くし、驚きを隠せなかった。アイリンは少し得意げに鼻を鳴らし、彼女らしい自信に満ちた態度を見せる。彼女にとって、ハルヴァスは生まれ育った故郷であり、その文化や技術は当たり前のものだ。しかし、零夜たちにとっては、現実と夢が交錯するような不思議な感覚だった。アイリンの内面には、この世界を他人に理解してほしいという願いと、仲間たちを導く責任感が同居している。彼女の鋭い視線とピンと立つ尻尾は、その誇りと覚悟の表れだった。


「魔術と科学が最先端に進んでるのが、この世界の最大の特徴なの。あなたたちの世界と変わらない部分もあるけど、ちゃんと理解しなさいよね」

「ファンタジー世界なのに、近未来の技術も取り入れてるなんて凄いな……」

「確かにそうね……」


 少し偉そうなアイリンの口調に、零夜たちは感心しながら頷いた。アイリンは右手のバングルを軽く叩き、空中に浮かぶウインドウを開く。画面には現在地を示すマップが映り、彼女は鋭い目でそれを見つめた。彼女の心には、仲間たちを安全に導く使命感が強く根付いている。異邦人である零夜たちを放っておけないという思いが、彼女の行動の原動力だった。


「まずはクローバールの町へ向かいましょう。そこには私たちがよく通うギルドがあるから、私が無事だって伝えなきゃいけないの。置いてかれても知らないわよ?」

「同感だな。それに行方不明のままで行動してたら、皆がびっくりして大変な騒ぎになるだろうし」


 アイリンの少しキツめの言葉に、零夜は静かに同意した。彼の心には、仲間たちとの絆を大切にしたいという思いが芽生えつつあった。地球での孤立感とは異なり、ここでは自分が必要とされていると感じられる。それが、彼に新たな力を与えていた。


「そういう事。あと、ギルドに登録すれば色んなクエストも受けられるから、その辺の手続きも済ませましょう!」

「そうやね。よっし! まずはクローバールに向けて出発開始!」

「はい!」

「ちょっと! 先に行かないでくださいよ!」


 倫子の元気な合図が響き、アイリンの案内で一行はクローバールへと歩き出した。倫子の明るさは、彼女の内面に秘めた楽観主義の表れだ。地球でのプロレス仲間との騒がしい日々を愛し、どんな状況でも前向きに楽しもうとする彼女の姿勢が、ここでも輝いている。

 一方、日和は倫子の勢いに引っ張られつつも、静かに状況を楽しんでいた。彼女の心には、新しい冒険への好奇心と、仲間たちとの時間を大切にしたいという穏やかな願いがあった。

 零夜とヤツフサも慌てて後を追いかける中、ヤツフサのふさふさした尾が揺れ、時折地面を軽く叩く姿がどこか愛らしかった。ヤツフサの内面には、仲間たちへの深い忠誠心と、冷静な観察眼が共存している。彼は言葉少なながら、状況を俯瞰し、皆を守る役割を自然と担っていた。


 ※


 ジュライ平原を進む零夜たちは、アイリンの案内を頼りにクローバールを目指していた。アイリンの地形への知識は確かで、時折ピンと立つ尻尾がその自信を物語る。


「この先にアルグラスの滝があるけど、そこは清き水が流れてて、お魚もいっぱいいるわ。魚くらい釣れるでしょ?」

「本当? じゃあ、クローバールに行く前に少し釣りに行こうか」

「そうですね。お昼食べてなかったので、早速向かいましょう!」


 倫子の目は輝き、即座に提案する。彼女の心には、どんな時も楽しさを見つけたいという衝動が溢れている。 

 日和も賛同し、二人で駆け出す姿はまるで子供のようだ。彼女の内面には、倫子の勢いに安心感を覚えつつ、自分もその流れに身を委ねたいという思いがあった。お腹を空かせた今、クローバールまで我慢する気はないらしい。


「行動が早いと言うよりは、そんな事してる場合じゃないと思うな……」

「それが彼女たちですからね……本当に思いやられますよ……」


 ヤツフサは小さな鼻を鳴らし、呆れたように首を振る。彼の心には、仲間たちの無鉄砲さに苛立ちつつも、それを愛おしく思う複雑な感情があった。

 零夜は苦笑いを浮かべ、肩をすくめた。彼の胸中には、地球での記憶が蘇る。プロレスの試合で倫子と日和に振り回された日々――ファンキーズの身代わりになったり、攻撃を食らったり、二人のいたずらに付き合わされたり。苦労は絶えなかったが、それが彼にとっての日常だった。この異世界でも、その関係性が続いていることに、どこか安心感を覚えていた。


「……苦労してるな」

「そゃあもう……」


 ヤツフサの低い呟きに、零夜は深いため息をついた。二人の間に流れる静かな共感は、長年の絆を感じさせるものだった。


 ※


 アルグラスの滝に着いた零夜たちは、ここで一時休憩を取ることにした。アイリンは川辺で魚を釣り、倫子と日和は果物を集め、零夜は火を起こしていた。火を終えた零夜はスマホを取り出し、「ネットチューブ」でDBW公式チャンネルの生配信を見始めた。画面には、DBWの社長兼レスラー・国鱒雷電くにますらいでんによる緊急記者会見が映っている。


『今回の事件を受けて、我々DBWは事実上ほとぼりが冷めるまで活動休止を決断しました。ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします』


 国鱒の言葉に、零夜の表情は硬直した。スマホを握り潰さんばかりに凝視する彼の心は、怒りと悲しみで煮えたぎっている。プロレスは彼の人生そのものであり、悪鬼によってそれが奪われた事実は、耐え難い痛みだった。滝の冷たい風が、彼の心をさらに冷たくさせる。


「くそっ! あの悪鬼、何回不幸にすれば気が済むんだよ……!」

「悪鬼は目的のためならどんな手段でも構わない。たとえ誰が相手でも変わらないのは当然だが、零夜たちが強くならないと返り討ちに遭うぞ」

「確かにその通りですね。俺たちが強くならなければ、前と同じ展開になってしまう。俺たちがこの世界に転移したのも、悪鬼を倒す救世主として選ばれたのがきっかけですからね……」


 零夜の拳が震え、目に滲む涙がプロレスへの情熱を物語る。その姿を見たヤツフサは鋭い牙を見せつつ、真剣に忠告する。

 零夜は静かに頷き、涙を拳で拭う。怒りを抑え、バングルを見つめる彼の心には、新たな決意が芽生えていた。

 その直後、倫子たちが食糧を持って戻り、食事の準備が始まった。そのまま準備を終えたと同時に、仲間たちは笑顔を交わしながら食事を楽しむ。零夜は魚の味に笑みを浮かべ、異世界での絆を感じていた。


(異世界の文化も悪くないけど……この魚は美味い物だな)


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